土地を平等に分配し、性別と年齢に応じた課税・徴税をする。土地の使用権は一代限りで、当人が死んだら収公する。これでは当事者のモチベーションが上がるはずはなく、多くの耕作地が放棄されたことから、公地公民制は早々に頓挫した。
それから段階的に規制緩和の処置が取られた結果、9世紀末には、全国の土地は公領と荘園に二分されたが、荘園も納税義務を免れず、官物と言って、租税、田地の面積に応じた田率、利息、賃貸料などを合算したものと臨時雑役を、国司を通じて納めねばならなかった。
荘園をめぐる天皇と貴族の争い
けれども、何事にも抜け道があるもので、同時期の地方社会には古墳時代以来の地方豪族に替わり、新たな富豪農民が登場。彼らは国司のもとから徴税吏がやってくると、武力をもって抵抗した。そのかたわら、中央の貴族の従者となり、開墾地を寄進するなど、名を捨てて実を取る作戦にも出た。
中央の貴族と結びつく利点は二つあった。一つは圧力である。当時の国司には課税額を決める権限が移譲されていたから、中央の貴族から国司に圧力を加えることで、税を減免させることが可能だった。
それとは別に、特別な事情がある場合、中央が国司の頭越しに国司以上の権限を行使できたから、圧力に効果が期待できないときは、こちらを選択する手があった。税の減免に加え、検地免除の「不入の権」までを含んでいたから、西洋史で言う「アジール(不可侵域)」の経済版に近い。
もちろん、中央貴族なら誰でも(国司以上の権限を)行使できたわけではない。紫式部の父・藤原為時のような下級貴族では無理だが、藤原道長の属する藤原北家、そのなかでも摂関家の当主のように、人事に対して強い発言力を持つ上級貴族であれば十分だった。