小学校までは靴も履いたことがなかった
成長に挑む思想をなぜ持てたか。さらに問うと、橋本は「私は田舎者だったから」と言う。熊本県南部の人吉・球磨地方は、南北の山塊によって隔絶された東西に長いクロワッサンの形の盆地だ。
生家があった肥後西村は市街地から外れた郡部で、幼い頃は水道や電気もろくに通っていなかった。ささやかな小売を営んだ両親は貧しく、小学校まで橋本は靴も履いたことがなかった。
「ここを出たい」とくすぶっていた中学時代、英語に打ち込んだ。胸に光を灯した中学教師の言を橋本が教えてくれた。
「これから英語が世界の公用語のようなものになると言われた。元はイギリス、今はアメリカという圧倒的に力の強い国の言葉をみんなが勉強するのは当然だろう、と。なるほどと思ったのね」
同じ中学から人吉市内唯一の県立高に進んだ親友、渋谷浩一が高校2年次に交換留学制度を使ってアメリカ・テキサスの石油会社の幹部の家に1年間ホームステイした。橋本は経済的な理由で断念せざるを得なかった。
渋谷は京大大学院の資源工学科から鉱山会社に就職するが、入社間もなく鉱山事故で亡くなった。橋本は「神様は残酷だなと思った」と言った。
人吉盆地から出てアメリカに夢を感じ、日本の基幹産業で道半ばとなった旧友。前後して重なるような道筋を歩んだ橋本の現在は、はるかその先を進む。天国の渋谷は、橋本の大義名分をどう見ているのか。