「飲み水」と「塩」の確保から始まった江戸開発
そこに関東の主に相応しい城と城下町を築き上げるのは、一朝一夕にできることではない。未開の湿地が広がっていた江戸の街作りというインフラ投資を進めるうえで、リスクマネジメントは欠かせないもので、まずは優先すべきものとそうでないものを取捨選択する必要があった。
そもそも豊臣秀吉が健在なうちは秀吉の動員命令を優先させなければならない。そこで家康は江戸のインフラ投資の手始めとして、飲料水の確保に必要な上水道の整備と、塩の安定確保に必要な専用水路の開削、利根川の東遷のみを急がせ、他はすべて先送りさせた。
江戸湾には利根川や荒川が流れ込んでいたが、どちらの水にも海水が混ざり、飲み水としては使えなかった。井戸を掘っても塩分か鉄分のどちらかが多すぎて、これまた飲み水として使えない。そうなれば、遠方から水を引いてくるしかなく、家康はこの大任を三河以来の家臣である大久保忠行に託した。
忠行は三河一向一揆との戦いで深手を負い、戦場に出られなくなってからは、祝いの席に欠かせない菓子作りに専念していた。それだけに今回の大命に奮い立たないはずはなく、小石川から神田に至る小石川上水を引くことで、みごと期待に応えた。
次に家康が急いだのが塩の確保だ。塩分過多な現代人には想像もできないかもしれないが、塩気のない食事を続けていると、力が出なくなり、肉体労働も無理なら頭も回らなくなる。人間が健全な社会生活を送るうえで、塩は必要不可欠なエネルギー源だった。
江戸近郊で最大の塩の産地は、現在は千葉県市川市管下の行徳である。家康はそこから江戸市中まで雨風に左右されず、速く安定的に往来できる供給路を造るしかないと考え、隅田川の本流と支流を東西一直線に結び、海岸線とほぼ並行して走る新たな水路、小名木川を開削させ、塩が供給不足に陥る事態を未然に回避させた。
そして利根川の東遷は文禄3年(1594年)、忍(おし)城主の松平忠吉(家康の四男)の命令で開始されたものだが、忠吉がまだ元服前であったことからすれば、家康が忠吉名義に出した命令と見るのが妥当で、付家老の小笠原三郎左衛門と関東郡代の伊奈忠次との協力のもと進められた。
利根川が流れ込む先を江戸湾から現在の千葉県銚子市に代えれば、江戸市中での水害防止はもちろん、新田開発や東北と関東を結ぶ舟運整備にも役立つ。大変な事業であるが、完成の暁には、計り知れない経済効果が期待された。