戦国時代に逆戻りする危険を回避するには、それが最適の選択だったということ。それでは幕府の所在地を朝廷のある京にも豊臣秀頼のいる大坂に移すことなく、江戸にこだわった点はどう解釈すべきか。室町幕府の凋落、織田信長の横死、豊臣秀吉死後の混乱をすぐ近くで見てきた家康にしてみれば、同じ轍を踏まないよう心掛けるのは当然のことだが、まさか過去のしがらみが多すぎるとの理由だけで京阪を避けたわけでもあるまい。
あくまで推測だが、家康は源頼朝に倣い、武家政権の本拠地は東国にあるべきと考えていたのではないか。経済力では上方に遠く及ばないが、東国の大地にはまだまだ発展の余地がある。上方に追いつけ追い越せと発破をかけ続け、新田開発や物流の整備を強化していけば、江戸の経済力が上方を上回る日の到来は決して夢物語ではない。家康はそう確信していたのではないか。
将軍宣下を受けた時点、家康は徳川一門と譜代を配置することで、東北南部から江戸・東海を経て上方、北陸から近江を経て上方に至る物流ルートを確保していたうえ、全国の主要な金山銀山と京都・奈良を直轄地とし、日本一の大富豪と化していた。しかし家康は、それに甘んじることなく、江戸が経済の点で京阪の後塵を拝する状況を一日も早く改めようと、最後の最後まで努力と工夫を重ねた。江戸が徳川260年の表舞台であり続け、明治以降も日本の首都であり続けているのも、家康の執念のなせる業と言ってよいのかもしれない。
(シリーズ続く)
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。
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