閉じる ×
島崎晋「投資の日本史」

【江戸の街作り】徳川家康が邁進した「天下大普請」で未開の湿地帯が別世界に様変わり! 「飲み水と塩の確保」から始まった“執念のインフラ投資”の全貌【投資の日本史】

家康がつくった江戸は明治以降も首都として繁栄した(参考:『山川 詳説日本史図録(第10版)』、『図説日本史通覧』帝国書院ほか)

家康がつくった江戸は明治以降も首都として繁栄した(参考:『山川 詳説日本史図録(第10版)』、『図説日本史通覧』帝国書院ほか)

 戦国時代に逆戻りする危険を回避するには、それが最適の選択だったということ。それでは幕府の所在地を朝廷のある京にも豊臣秀頼のいる大坂に移すことなく、江戸にこだわった点はどう解釈すべきか。室町幕府の凋落、織田信長の横死、豊臣秀吉死後の混乱をすぐ近くで見てきた家康にしてみれば、同じ轍を踏まないよう心掛けるのは当然のことだが、まさか過去のしがらみが多すぎるとの理由だけで京阪を避けたわけでもあるまい。

 あくまで推測だが、家康は源頼朝に倣い、武家政権の本拠地は東国にあるべきと考えていたのではないか。経済力では上方に遠く及ばないが、東国の大地にはまだまだ発展の余地がある。上方に追いつけ追い越せと発破をかけ続け、新田開発や物流の整備を強化していけば、江戸の経済力が上方を上回る日の到来は決して夢物語ではない。家康はそう確信していたのではないか。

 将軍宣下を受けた時点、家康は徳川一門と譜代を配置することで、東北南部から江戸・東海を経て上方、北陸から近江を経て上方に至る物流ルートを確保していたうえ、全国の主要な金山銀山と京都・奈良を直轄地とし、日本一の大富豪と化していた。しかし家康は、それに甘んじることなく、江戸が経済の点で京阪の後塵を拝する状況を一日も早く改めようと、最後の最後まで努力と工夫を重ねた。江戸が徳川260年の表舞台であり続け、明治以降も日本の首都であり続けているのも、家康の執念のなせる業と言ってよいのかもしれない。

(シリーズ続く)

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。

〈プレミアム連載「投資の日本史」を読む〉
大和政権が「全国支配」の足がかりとした朝鮮半島「伽耶」への進出 200年超に及ぶ出兵コストに見合ったリターンの中身
「遣隋使」「遣唐使」──遭難率4割のハイリスク事業が200余年も継続された理由 人材を“複数の船に均等に”分乗させるリスクマネジメントも
大河ドラマでは描かれない藤原道長“貴族の頂点”に至る道 一条天皇の心を長女・彰子に振り向かせた「唐物攻勢」
藤原道長が一門の栄華のために活用した「仏教信仰」 それは頼通の平等院に受け継がれ日本人の美意識に影響を与えた
【藤原道長と荘園】「実入りのよい国の受領」に家来を派遣して手に入れた「地方の権力基盤」 そこには政治力・人事権・財力の循環が欠かせなかった
「平氏にあらずんば人にあらず」の世を築いた平清盛 “瀬戸内海の掌握と治安維持”は投資であると同時にリスクマネジメントでもあった
足利義政の妻・日野富子“守銭奴の悪女”イメージを生んだ高利貸・投機などの利殖活動が応仁の乱後の京都復興を支えた事実
今川家に育てられた徳川家康、信玄の側近になった真田昌幸… 戦国時代、他家に差し出す「人質」は投資とリスクマネジメントを兼ねた選択だった
“財源に乏しい甲斐国”を大国へと成長させた「武田信玄のインフラ投資」 その元手となる資金は掠奪と重税頼みだった
織田信長が「鉄砲の量産化」で実現した“戦場のイノベーション” 最大の貿易港と主要な鉄砲生産地を掌握、火薬と弾丸を安定的に調達するリスクマネジメントも
豊臣秀吉の朝鮮出兵の真の目的は「東アジア全域の流通掌握」 無謀な挑戦によって得られた利益は、全体の損失に比べてあまりに小さかった

注目TOPIC

当サイトに記載されている内容はあくまでも投資の参考にしていただくためのものであり、実際の投資にあたっては読者ご自身の判断と責任において行って下さいますよう、お願い致します。 当サイトの掲載情報は細心の注意を払っておりますが、記載される全ての情報の正確性を保証するものではありません。万が一、トラブル等の損失が被っても損害等の保証は一切行っておりませんので、予めご了承下さい。