さらに、小泉政権時の2004年の改悪では「年金保険料の引き上げ」と「支給額のカット」を決め、制度の矛盾を国民に負担増という形で押しつけた。
当時の政治家と年金官僚が何と説明したか、国民は忘れていない。「100年安心の年金を構築するために」という言葉だ。それは言い換えれば、“このままでは近い将来、年金制度は崩壊する。そうなったら貧困の老後が待っているぞ”という脅しである。
国民はそれを渋々受け入れた。60歳から65歳まで働いて生活の糧を確保し、あるいはその5年間だけ節約すれば、約束された年金が入ってきた頃には、バラ色とは言えないまでも安定した老後生活が送れる。高齢者(年金受給者)になるゴールテープが「65歳」に延びても、何とか働く体力も意欲もある。その間だけでも年金の「受け手」ではなく「支え手」になれば、次世代にも年金制度を継承できる──そう考えたから我慢したのだ。そうした国民の「犠牲」で、“100年安心の年金”はかろうじて成り立った。
だが、それと同じやり口で70歳、さらには75歳へと受給開始を引き上げようとする年金政策からは、国民の犠牲を為政者が「当然の義務」としか考えていないことが見て取れる。政治家と年金官僚たちは、いかに「老後のゴールテープを後ろ倒しするか」に知恵を巡らせるばかりで、その“延長区間”を走らされる国民の苦難など眼中にない。
そのことは、自民党の政策提言に〈65歳から74歳までは「シルバー世代」として、本人が希望する限りフルに働ける環境を整備し、「支え手」に回っていただける社会の構築を目指す〉と記されていることからも明白だ。
65~74歳を「働ける世代」として扱うのは、高齢者が幅を利かす職場で、税金から高給が約束される政治家ならではの発想というほかない。その特殊な感覚を、一般国民に当てはめるのは暴論極まりない。
※週刊ポスト2017年8月18・25日号