アメリカの投資家で「イングランド銀行を倒した男」と呼ばれるジョージ・ソロス氏は1月22日に行なわれたダボス会議で、次のように発言した。
「中国バブル崩壊はもう起こったこと。(中略)中国経済の問題はデフレと過大な債務だ。中国経済の負債はおそらくGDP比300%か、対外債務を合わせれば350%にも上る深刻なもの。しかも中国は輸出主導から内需主導への経済改革を長く放置し過ぎた。ハードランディングは不可避である」
その上でソロス氏は「自分は“アジア通貨”を空売りしている」と高らかに宣言。この言葉は世界に大きな衝撃を与えた。ソロス氏のいう“アジア通貨”が何を指しているかは明かされていない。だが、「人民元を指しているのでは」というのが投資関係者の共通認識だ。そのため習近平vs.ソロスという構図を金融関係者は囁いているのである。
ソロス氏は1930年8月生まれの85歳。彼がその名を世界に轟かせたのは、「ポンド危機」だった。ポンド危機とは、1992年にイギリスポンドが急落した事件である。
1990年代初頭のイギリスは、欧州各国の不況や財政健全化策などによって景気が後退し、失業率が上昇していた。しかしその経済状況とは裏腹に、ポンドは過大評価されていた。
理由は当時、イギリスがEUの前身であるEC諸国の通貨管理体制・ERM(欧州為替相場メカニズム)に参加していたからだ。将来の統一通貨・ユーロの導入に向けて、ERMに従い、自国通貨のポンドと欧州他国通貨との相場を一定範囲に固定する政策を取ることで、金融政策の柔軟性を失っていたのである。そこに目をつけたのがソロス氏だった。
「イギリスはERMの規制に従って固定相場制を維持せざるをえず、ポンドが下がらないよう買い支えました。しかしソロス氏は、イギリスがそのままERMに留まることは不可能と考え、制度が破綻するタイミングを見計らってポンド売りを仕掛けた。しかも投資金額にかなりのレバレッジをかけ、先物取引の手法を駆使して大量の取引を行なうことで、相場が崩壊の方向に動くように誘導すらしました。
イングランド中央銀行は1日に2度も公定歩合を引き上げるなどして対抗しましたが、防戦しきれずにイギリスの固定相場制は崩壊。大きなポンド安が起こったことで、ソロス氏は莫大な利益を得ることになった」(丸三証券経済調査部長・安達誠司氏)
一説によれば、ソロス氏が売り浴びせたポンドは100億ドル相当、一夜にして10億ドルもの利益を上げたといわれる。この大勝利によって、ソロス氏は「イングランド銀行を倒した男」と呼ばれるようになったのである。
1997年の東南アジア通貨でも同様だ。ソロス氏を中心としたヘッジファンド集団がバーツなどを空売りし、通貨が暴落。通貨危機を招いた“張本人”としてマレーシアのマハティール首相(当時)らからソロス氏は名指しで批判を浴びた。
◆ポンド危機の時と状況が酷似
今度の相手はこれまでのどの相手よりも強大な、世界第二位の経済大国・中国。果たしてソロス氏に勝ち目はあるのか。外為オンラインのシニアアナリスト・佐藤正和氏はソロス氏の手腕をこう評価する。
「彼の最も優れている点は、投資家の心理を読むことに長けているところです。相場を動かしているのは人だからこそ、市場参加者の心理を的確に読み、相場の転換点を探るのがソロス氏の基本的な投資手法といわれています。彼はそのうえ綿密に市場を分析し、本能と直感で相場を張る」
今回の件でいえば、世界中の投資家が中国経済に疑問を抱き、将来の投資対象として不安を感じているであろうタイミングでソロス氏は動いた。
「ソロス氏は『成功のカギは市場が自らの勢いで混乱を始める時点を見抜くことだ』と語っています。トレンドの転換点を見抜くことにかけては天才といえるでしょう」(前出・佐藤氏)
そして今の中国の為替市場は、ソロス氏がイングランド銀行に戦いを仕掛けた時の状況と酷似しているのだ。前出・安達氏の話。
「中国は経済大国といわれる国々のなかで、いまだに実質的な固定相場制をとっている唯一の存在です。しかしIMF(国際通貨基金)のSDR(※注)に加わった人民元はもはや国際通貨だと認識されている。にもかかわらず介入を続けて人民元を固定相場にしたままでは『国際通貨たりえない』と、世界中から非難を浴びることになる。中国政府の市場介入政策とマーケットの間に歪みが生じ始めているのです」
【※注/特別引出権のこと。世界共通の通貨単位で、その価値は4つの通貨(ドル、ユーロ、ポンド、円)の価値によって決まっており、2015年11月に元を加えた5つで構成することが決定した】
国内の景気が減速していても、固定相場制を維持せざるをえない中央銀行―この構図は「ソロスvs.イングランド銀行」の時とまったく同じなのだ。
※週刊ポスト2016年3月4日号