「創業家が経営を監督する体制を強化するため」と説明されたが、同時に「2人が経営者になることを意味するものではない」とも語った。
日本の不合理な政治システム、官僚支配を蛇蝎のように嫌う柳井氏には峻厳な経営者のイメージが付いて回る。しかし、その一方で「後継者ではない」と言いつつ、2人の息子を溺愛している。次男の家を自らの家の敷地内に建てさせ、一緒に暮らす。現在、長男家族はニューヨーク赴任中だが、以前はやはり父と同じ敷地に住んでいた。
現在、ユニクロの店舗数は国内が825。柳井氏が最も力を入れる中国本土は673、香港は28。この1、2年で中国本土の店舗数は国内を抜くと見られている。
柳井氏は周辺には中国本土の店舗数を3000にまでしたいと漏らしている。中国では「ユニクロ」は押しも押されもせぬブランドに成長した。その先には本社をアジア圏のどこかに移す計画も内々に検討されているという。それは経営の委譲のみならず、資産の移転も速やかに行なうためだろう。そのモデルこそが華僑のそれなのである。
「ユニクロ」が中国本土にその名を知らしめるきっかけとなったのが2008年北京五輪に際して、北京再開発の目玉地域「三里屯」へ出店したことだった。競ったのは「ユニクロ」より遥かに有名だったグローバル企業、アップルであり、サムスンだった。しかし、勝ったのはユニクロだった。
なぜか? 香港に本部を置く国際的なコングロマリット「スワイヤー・グループ」がユニクロを押したからだ。その地域の再開発を行なっていたのは同グループだった。
柳井氏は、香港に数多くの縫製工場を持つ「利豊」グループを通じてスワイヤーとの関係を築いていった。その過程で柳井氏は華僑グループの事業継承の知恵を学んでいく。世襲はしないと言い続けている柳井氏が前言を翻す日はそう遠くないのではないだろうか。
●文/児玉博(ジャーナリスト)
※週刊ポスト2019年5月3・10日号