北条時政と比企能員が似た立場にあったことについては、岡田清一著『北条義時:これ運命の縮まるべき端か』(ミネルヴァ書房)にある以下の一節が核心を突いている。
〈婚姻と乳母関係などによって結ばれた鎌倉殿頼家の存在こそが、比企氏の大きな権力基盤であった。しかも、それに安住したためか、幕府の組織を基盤とすることもせず、きわめて不安定であった〉〈それは北条氏も変わらなかったが、その後の対応の違いが、両者の立場を大きく分けることになる〉
北条氏と比企氏の分かれ道
ここで言う「その後の対応」とは、北条時政が正治元年(1200年)元日の儀礼を主催したこと、および同年四月一日に従五位下の遠江守(国司)に任じられたことを指している。
元日の儀礼の主催は御家人の筆頭であることを自ら示し、国司(頼朝時代には源氏一門にしか許されなかった官職)への任命は「源氏一門に準ずる立場」を公認されたに等しい。鎌倉幕府で財務・政務を司る政所別当に就任できる者は「五位以上」に限られていたから、時政は生き残りのためもがくうちに、幕府の行政組織のトップへと大きく近づいていたのだった。
これに加え、北条時政が比企能員との権力争いに勝利できた理由として、「切り崩し工作の成功」と「謀略の成功」を挙げることができる。
切り崩しの対象は信濃国(現在の長野県)に本拠地を持ち、頼朝時代には源氏一門筆頭を務めた有力御家人の平賀氏である。比企能員は義母である比企尼(頼朝の乳母を務めた)の三女を平賀義信に嫁がせ、朝雅をもうけていたが、一方の時政は五女を朝雅に嫁がせ、平賀氏を比企陣営から北条陣営へ鞍替えさせることに成功していた。東山道から北陸道に及んだ比企氏の勢力圏に楔を打ち込む形になったわけで、その影響の大きさは計り知れない。
一方の謀略とは、比企能員を仏事に事寄せておびき出し、難なく暗殺した一件を指す。先に頭を取ったことで、時政は最小限の流血と労力で事態を収拾することができた。