2000年代、液晶テレビ「AQUOS(アクオス)」のヒットで大躍進したシャープ。「世界の亀山モデル」で市場を席巻したが、その栄華は長く続かなかった。テレビ向けの大型液晶パネル事業からの撤退が決まり、社員や元経営者は何を思うのか──。
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堺の工場を買い戻したのは「時代錯誤も甚だしい」
「そりゃあ時代の流れだからね。電機産業は栄枯盛衰、10年サイクルで大きく変わる。これは業界の常識です。いつまでもテレビをやっているほうが……ちょっとね。(2016年に)せっかく売った堺の工場を2022年に買い戻したが、時代錯誤も甚だしい。ピークを過ぎた液晶に投資するなんて」
そう語るのはシャープ元社長の町田勝彦氏。1998年の社長就任後、液晶事業を急拡大させ、同社を「3兆円企業」に押し上げた立役者だ。
2004年には液晶テレビのパネル製造から組み立てまでを一貫生産する亀山工場(三重県)を稼働させた。2007年に会長就任、2012年退任。80歳を迎えた町田氏は、台湾企業・鴻海の傘下に入った2016年以降の液晶事業をめぐる経営判断については「わからない」と言葉少なに語るのみだった──。
5月14日、シャープはテレビ向けの大型液晶パネルからの撤退を発表した。子会社・堺ディスプレイプロダクト(SDP)が運営する堺工場(大阪府)での生産を9月末までに停止するという。
工場建物はAIのデータセンターなどへの転用が検討されるほか、工場勤務の社員については早期退職を募る予定だ。シャープ広報部が説明する。
「一部でシャープの液晶事業がなくなると報じられましたが、それは誤りで、亀山工場などで中小型液晶パネルの生産は引き続き行ないます。堺工場は生産停止で閉鎖されますが、製造部門に勤務するSDP社員には配置転換、再就職などの支援を実施します」
堺工場に長く勤める40代社員が明かしたシャープの課題
日本の家電メーカーで唯一、テレビ向け液晶パネルの国内生産を続けてきた堺工場。現場で働く従業員は約800人いる。現地で話を聞くと、戸惑いながらも冷静に受け止める声が聞こえてきた。
「2009年の稼働時から働いてきたが、東日本大震災後の2012~2013年あたりからテレビそのものが売れなくなっていた。パナソニックが尼崎工場を閉鎖(2013年末)したのを目の当たりにした時からこのままで大丈夫かとずっと思っていた」(50代社員)
ただ、SDPの工場閉鎖を知ったのは発表の数日前で驚いたという。
「シャープ本社からの出向組とSDP社員に分けて従業員向け説明会が開かれました。閉鎖後の再就職先支援などが話されました。今後のことについてはまだ考えられていません」(同前)
堺工場に長く勤める40代社員は「ずっと変化がなかった」と振り返る。
「2016年に鴻海に買収されて以降、一時は業績改善による待遇向上などもあって社員も喜びました。ですが同時に、液晶パネルを活用した新たな技術や製品の開発力、その売り先を見つける営業力などがシャープにないことも痛感していました」
「世界の亀山モデル」で最高益を叩き出す
「液晶のシャープ」の象徴だったのが、三重県亀山市の工場で製造される「世界の亀山モデル」だ。経済ジャーナリストの大西康之氏が語る。
「1998年に町田社長が『すべてのブラウン管テレビを液晶に置き換える』と宣言したところから液晶への注力が始まった。ソニーや日立がブラウン管の高画質・大画面化で訴求したのを尻目に、壁にかけられるほどの『薄さ』に価値を見出したのが『アクオス』。ブラウン管より画質が劣るのに売れたことにソニーの技術者たちは唖然としていた」
液晶テレビは競合するプラズマテレビを圧倒し、売り上げを伸ばした。「亀山モデル」はブランド化に成功し、同社は2008年に最高益を叩き出す。
だが、2009年に大型液晶パネルを大増産すべく堺工場を稼働させた頃をピークに綻びが見え始めた。
「韓国のサムスンやLG、続いて中国企業が参入すると、液晶パネル開発はスケールメリットの勝負に変わりました。機能や品質よりコスト勝負に変化するスピードが、シャープの想定を大幅に上回っていました」(同前)
亀山工場は堺工場の稼働により主にスマートフォンや携帯ゲーム機など向けの中小型液晶パネルの生産にシフト。テレビ向けパネルの生産は2018年を最後に停止している。リーマンショック以降は赤字経営が続き、2016年に鴻海傘下に入ることで息を吹き返したが、液晶事業は今も低迷したままだ。
亀山のタクシー運転手が明かした“企業城下町”の現在
今回、亀山工場も「規模縮小」が発表された。かつて、“企業城下町”として栄えた亀山市では、地元のタクシー運転手がこう話した。
「20年くらい前の全盛期は本当にすごくて、従業員が住むマンション群もできた。それが今は誰が住んでいるのかわからないほど廃れています。交通量もぐんと減って、見る影もなくなった」
亀山工場の従業員にも話を聞いた。ある若手社員はこんな思いを語った。
「子供の頃、『世界の亀山』と呼ばれていたのをすごく覚えています。パネル事業の縮小は悲しいが、少しでも長続きさせられるよう頑張りたい」
一方、長く亀山工場での仕事に従事してきた50代社員の表情は暗い。
「液晶のシャープ、世界の亀山なんて昔の話。(2009年に)堺工場ができた時でさえ、『なんでやねん』と思った。テレビのパネルなんて儲かるわけがないと思っていた」
液晶事業の縮小で、「一部の人材をソニー系の半導体工場に出向させることも検討中」とも報じられた。絶頂期においては競い合う“仇敵”だったソニーへの出向は気が重いのではと思いきや、当の本人たちは冷静だった。
「ソニーへの出向は数十人規模という話。新しい場所で学べるチャンスとポジティブに捉えたい。私は行くことになっても構わない。ある程度能力があって、他社でスキルを上げて会社に貢献できそうな人が選ばれるようです」(別の50代社員)
この質問を投げかけた別の40代社員の言葉が寂しくも印象的だった。
「こうなることは何年も前から分かっていたことなので、転職する人はもうとっくにしている。今残っているのは『シャープで働きたい』という気持ちの強い人ですよ」
元社長が語る「アクオス」立ち上げ秘話と液晶の衰退
シャープは創業者・早川徳次氏によって金属加工の会社として出発した。シャープペンシルのヒットにより全国区となるが、戦後、家電事業ではソニーやパナソニックに圧倒的な差を付けられていた。
そんな同社を一時“家電業界の雄”に押し上げたのが「アクオス」だった。
前出・町田社長はアクオス誕生の立役者であり、凋落が始まった時期に鴻海との資本提携を進めた人物でもある。
町田氏は事業の立ち上げを「それはもう大変だった」と振り返る。
「当時の液晶ディスプレイは映りが悪く、ちょっとしたモニターに使う程度。技術がないところに、シャープが先頭を切って液晶のテレビ装置を作り上げた。あらゆる産業のメーカーの協力で画面がだんだん大きくなり、映像が美しくなっていった」
その過程は、苦労が大きい分、喜びにも満ちていたという。
「子供を育てるのと一緒やな。工場を建てて動き出す時は心配で胃が痛かった……。亀山の準備が整ったのは忘れもしない、クリスマス。技術者は顔を歪めて試行錯誤していた。でも、うまく動いた時は人間の顔がこうも変わるものかと思うくらい喜んでた。苦しくて、楽しい思い出です」(同前)
そこから数年は右肩上がりで黒字が続いた。
「液晶テレビで業績が大きく伸びたのはたしかですが、一番大きかったのは携帯電話。シャープが初めて製品化したカメラ付き携帯は市場を制覇しました。iPhoneが登場する2007年頃まではテレビと携帯、プラズマクラスターの3つはオンリーワンだった」(同前)
ただ、町田氏は当時から液晶の衰退を予見していたという。
「2000年頃に『日本の液晶が続くのは2010年まで』と話したのを覚えている。エレクトロニクス業界は技術革新でどんどん変わる。いつまでも同じ技術があるわけない。液晶パネルを今後もやりたいなら、使い道となる新しい電子機器を考えないといけない。テレビを見る人が減った今、同じものを追いかけてもしょうがない気がします」(同前)
「日本メーカーの液晶事業」が苦境に陥った最大の原因
シャープのみならず、日本メーカーの液晶事業が苦境に陥った最大の原因は、海外勢がみるみる台頭してきたことだった。
「開発した技術を特許や契約で守ろうとしても抜け道がある。人が動く限り、技術の流出を止める手立てはなかった。国家資本が入る中国の企業が工場を建てて生産を開始したら、もうあかんなと。液晶しかり、電気自動車しかり、日本の民間企業が価格競争で勝つことはできません」(同前)
そう語る町田氏だが、シャープの今後については望みを捨てていない。
「チャンスは必ずある。創業者から続くシャープの伝統は『世の中にないものをつくる』。オンリーワンを目指せば、技術メーカーは必ず生き残れる。そう信じています」
シャープペンシルや液晶表示電卓など、シャープは独創性こそ伝統だった。今後の成否の鍵を握るのはやはり、“目の付けどころ”にほかならない。
※週刊ポスト2024年6月7・14日号