「ケンタッキーフライドチキン」を運営する日本KFCホールディングスが、三菱商事傘下を離れ、米投資ファンドカーライル・グループに買収された。同社は9月中に上場廃止となり、新たな出発をすることになる。カーライルは買収後、「積極的な出店戦略」や「メニューの多様化などによる売上の成長加速」「デジタルの強化」などを進めるとする。
その一方、同社が守り続けた「伝統の味」が変わってしまうのではとの不安の声も多くある。1970年に日本1号店がオープンして以降、同社が「味」にこだわり続けた背景には、創業者のカーネル・サンダース氏から直接託された「願い」があった──。
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白髪に白いあご髭をたくわえて、黒縁メガネにダブルのスーツ。ちょっとふくよかで、手にステッキを持つ優しそうなおじさん──。アメリカでは大統領よりも有名人と言われるカーネル・サンダース氏は日本でもなじみが深く、ケンタッキーフライドチキンの店を訪れれば、“カーネルおじさん”の立像がいつも迎えてくれる。1985年に阪神タイガースが21年ぶりの日本一になった夜、道頓堀川にサンダース氏の立像が投げ込まれたことはのちに残る語り種になっている。
だが、そんなサンダース氏がどんな人物で、どのような人生を歩んだのかを知る人は少ない。
1890年9月9日に生まれたサンダース氏は、若い頃からペンキ塗り、鉄道員、弁護士助手など職を転々としたが、40代で経営するガソリンスタンドにレストランを併設し、「オリジナルチキン」のレシピを10年かけて完成させた。1952年、ユタ州ソルトレイクシティにケンタッキーフライドチキン1号店を誕生させたのち、65歳の時に経営難から無一文になる難局を乗り越えて、“秘伝のレシピ”を武器に米KFCを急成長させた(参考資料:宝島社『KFC(R) 50th Anniversary やっぱりケンタッキー!』)。
カーネルおじさんと日本KFC3代目社長・大河原氏の邂逅
そんなサンダース氏を尊敬してやまなかったのが、日本ケンタッキー・フライド・チキン(現・日本KFCホールディングス)3代目社長の大河原毅氏だ。大日本印刷の営業マンだった大河原氏はビジネス相手の米KFCに気に入られ、1970年、愛知県名古屋市に誕生したケンタッキーフライドチキン日本1号店の店長に抜擢された。
日本KFCを30年以上取材する日本経済新聞編集委員の田中陽さんが語る。
「サンダース氏は60代でフランチャイズ事業を大成功させて、米KFCは『世界で最も多くの億万長者を作った会社』と称賛されました。そんなサンダース氏を、たたき上げの経営者である大河原さんはとても尊敬していました」(田中さん・以下「」内同)
カーネルが作るフライドチキンの味に「目を丸くした」
大河原氏が尊敬するサンダース氏と初めて会ったのは米KFCで研修中だった1970年代、すでにサンダース氏は70歳を超えていた。
「ケンタッキー州にある米本社で後ろからふいに声をかけられて振り返ると、あのサンダース氏が笑顔で立っていた。すでに名誉職だったサンダース氏は日本から来た大河原さんに自らの人生を丁寧に話したそうです。ちょうど米本社の買収が決まった頃で、サンダース氏は『こんな会社じゃなかったんだが……』と創業精神を失いつつあった米本社の現状を嘆いたとも言います」
1978年に2度目の来日をした際、サンダース氏は自ら店舗の調理場に入ってフライドチキン作りに腕を振るった。
「そのチキンのあまりのおいしさに大河原さんは目を丸くしたそうです。日本のスタッフが同じ条件で調理しても同じ味にはならず、“この差は何?”と首をかしげるスタッフを見て、サンダース氏はニコニコと笑っていたと大河原さんは嬉しそうに話していました」
米側の株主から「日本KFCは外国産の冷凍鶏肉を使え」の圧力も
大河原氏に試練が迫ったのは、米KFCがM&Aや業界再編の波に襲われた1980年代から1990年代にかけて。米側の大株主が短期的な利益の向上をめざして、「日本KFCは円高で安く調達できる外国産の冷凍鶏肉を使え」と圧力をかけてきたのだ。
「それでも大河原さんは屈しませんでした」と田中さんは語る。
「アメリカから言われたことをとりあえずやってみて、ダメだったら“やっぱり日本では通用しないんですよ”とやんわりわからせる。時には米本社に対する『背信行為だ』という猛烈な抗議に対して、『日本の消費者のことをわかっていないな』と無視を決め込むこともありました。外国産鶏肉は血抜きが不十分で日本の消費者の味覚には堪えられないとして、大河原さんは国産鶏の取引ルートを自ら開拓することもありました」
サンダース氏のレシピを必死に守り抜こうとした大河原氏が、アメリカからのプレッシャーに対抗する際によりどころとしたのは、日本人ならではの「繊細さ」だった。
「米本社の求めに応じて、綿実油とコーン油のセットを安価なパーム油などに変更すると、お客さんから『食べた後のゲップの臭いが違う』との声が寄せられたそうです。1990年代前半には試験的に外国産の鶏肉を使ってみたら売上がガクンと落ちたこともあった。
こうした経験から大河原さんは、“日本人の舌はなんて繊細なんだ”と感激して、変えていいものと絶対に変えてはいけないものを学びました。その上でさらに日本人の味覚に合うよう、鶏にハーブを食べさせて臭みを取るなどの改良を重ねました」
米本社の度重なる介入にも負けず、大河原氏と日本KFCはサンダース氏の味にこだわり、さらなるブラッシュアップを続けた。不断の努力が実って現在は本国から、「本物のケンタッキーフライドチキンを食べたい」と日本を訪れるアメリカ人もいるほどだ。
「日本が一番、私の味を守ってくれている。日本だけだ」
米国研修時にレシピを直接指導した教え子の奮闘は、M&Aにより創業時の味が失われことを嘆くサンダース氏の心を揺さぶったに違いない。晩年に来日したサンダース氏は、大河原氏に優しくこう語りかけたという。
「日本が一番、私の味を守ってくれている。日本だけだ」
大河原氏にロングインタビューをした田中さんが語る。
「大河原さんは国際的なビジネスマンでありながら、日本人としての魂や、宗教的な信念に基づく利他の精神を持っていた。だからこそ、先鋭的な株主資本主義に抵抗する気持ちがあったのでしょう。彼は60歳を超えてから事業を成功させたサンダース氏に憧れていたから、“日本だけが私の味を守ってくれる”と言われた時は万感の思いだったはずです。不思議なことに、サンダース氏と大河原さんは風貌もよく似ています」
日本KFC「今のKFCにも、カーネルの想いは脈々と受け継がれている」
まさに相思相愛で、ハートフルな子弟関係だったサンダース氏と大河原氏。カーライルによる買収が迫る中で、「伝統あるサンダース氏の味を守ることの意味」について、日本KFC広報はこうコメントする。
《大河原元社長をはじめ、オリジナルチキンの調理法をカーネルから直々に教わった人は、口をそろえて「チキンへの強いこだわりを感じた」と言います。20にも上る調理工程を守るのは当然のこと、食べる人を想い、徹底的に愛情を込めて調理する。今のKFCにも、カーネルの想いは脈々と受け継がれています。そして、これからもカーネル・サンダースの意思や精神を忠実に継いでいくことがKFCブランドの根幹を支え続けていくものと考えております》
本国の創業者と極東の継承者の信頼関係が生み出したオリジナルチキンは、舌の肥えた日本人のデリケートな味覚によく合う。だからこそ、カーライルによる買収でケンタッキーの味が変わってしまわないか、多くのファンが気を揉んでいるのだろう。
取材・文/池田道大(フリーライター)、写真提供/日本KFCホールディングス