黄色のボディに赤い「HATO BUS」の文字。東京観光の象徴ともいえる「はとバス」が今年8月、創立70周年を迎えた。終戦直後の焼け野原の中、「観光バスで日本を立て直す」と決意した東京地下鉄道出身の山本龍男により始まった歴史は、復興を遂げて発展していく東京の街の歩みと軌を一にしてきた。
戦後間もない1948年。東京都が持っていた定期遊覧バスの営業権の払い下げに奔走した山本の甲斐もあり、都庁の次長だった町村金五を初代社長に迎えて新日本観光株式会社(現・はとバス)が設立された。待望の定期観光バス第1号が上野駅から運行を開始したのは、翌年3月19日午前9時。皇居、浅草など都内を約3時間半でめぐるコース(大人250円)だった。
当時打ち出したキャッチフレーズ「お一人でも乗れる東京定期観光バス」は、70年経った今も受け継がれている同社のコンセプトだ。第1号から車体には平和のシンボルである鳩のマークが描かれていたが、鳩らしく見えないとの理由から、1950年に新マークに改訂し、「はとバス」という愛称も決まった。以来、はとバスはコースや発着地を増やし、東京タワー開業、東京オリンピック開催などを追い風に、利用者数も右肩上がりで増加していった。
興味深いのは、時代を先取りする挑戦的で斬新なコースが当初から目白押しだったことだ。1950年代には、キャバレーやヌードショー、吉原でのおいらんショーなどを組み込んだ夜の観光コースが登場。近年ブームになっている工場や空港見学も、1955年には社会科コースとしてすでに実施していた。ボウリング、ディスコ、ニューハーフショーなど、その時代の流行を取り入れた各コースは、世相を反映した昭和・平成史の断片といえる。
ただ、決して平坦な道のりばかりではなかった。観光産業は景気の影響を真っ先に受ける。オイルショック、バブル経済の崩壊、リーマンショックなどの逆風に耐え忍ぶ時期もあった。
「走り続けることが大事なんです。東京スカイツリー開業も追い風に、現在はV字回復を果たしています。70年間、サービスやコンセプトなどコアな部分は変わりませんが、街は変化しています。昔乗った方も新たな思い出を作りにぜひご利用ください」(永野アラニ正則広報室長)
※週刊ポスト2018年9月21・28日号