東日本大震災から12年。都市部ではどんな被害が起きていたのか。東北最大の都市・仙台を訪ねた。
三陸沖を震源地に、最大震度7、死者1万9747名を数えた東日本大震災。沿岸部の大津波や福島の原発事故が記憶に残るが、東北最大の都市・宮城県仙台市でも約3万棟の建物が全壊する被害を受けた。
「発生当時、私は市中心部にある青葉消防署に勤務していました。大変な揺れでしたが、動揺する暇もなく、市内で起こっているエレベーターに閉じ込められている人の救助や、火災対応などに追われていました。仙台駅のすぐ近くに住む妻と2人の子供とは数日間連絡がつかず、帰宅できたのは2週間後でしたね」
そう語るのは、仙台市危機管理局で防災・減災アドバイザーを務める折腹さんだ。
「宮城県沖では、平均約38年の周期で大きな地震がくり返し発生しています。前回の地震は1978年だったので、『近いうちに来るだろう』といわれてはいましたが、まさか数百年に一度の大地震になるとは、思いもよりませんでした。夜、署内で初めて津波の映像を見たときは、正直なところ、遠い世界の出来事のように感じました。それほど現実的ではない光景だったんです。その後、『大変なことになった』とわれに返ったことを覚えています」(折腹さん・以下同)
市内では約900名の命が奪われたが、亡くなった人のほとんどは津波によるものとされている。
「市街地に関して言えば、ある程度、地震に対する備えはありました。しかし、仙台駅に1万1000人もの人が押し寄せるなど、想定外の帰宅困難者が出たんです」
駅では受け入れの準備ができていなかったため、彼らの多くが近くの避難所に向かい、その結果、最大で約10万6000人が市内各地の避難所に身を寄せることになったという。
「私の妻は、子供たちを迎えにいった幼稚園で地震に遭いました。自宅に戻ると家具や割れた食器が散乱して足の踏み場もなかったため、やむを得ず近くの避難所に向かいました。ところが、すでに人がいっぱいで受け入れてもらえず、自家用車の中で過ごしたそうです。私は職務がありましたし、余震も続いている。寒さと不安でつらかっただろうと思います」