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実兄から見た出川哲郎の半生 今でも守り続ける母からの教え「やりたいことはブレずにやり続けろ」

「切れたナイフ」だった高校時代(写真提供/雄一郎さん)

「切れたナイフ」だった高校時代(写真提供/雄一郎さん)

 高校時代は「切れたナイフ」と恐れられていたと本人は言ってますが、本当のところは軟式野球部で軍隊のような厳しい生活を送っていたんです。でも、ヤンキースタイルには憧れがあったようで、学ラン姿の写真も残してますから、その気質は持っていたんでしょう。

 毎晩寝る前に、いまもバイブルにしている矢沢永吉さんの『成りあがり』を読んでいたそうですが、「人生は一度しかない。好きでもないことをやっててどうするんだ。そうじゃねえだろう」と意を翻し、半年ほどで横浜に戻ってきました。

 そして、「役者になりたい」と言ったんです。正直「何を言ってんだ!」と思いましたが、母は「いいじゃない。自分で好きなもの、やりたいことを見つけたんだから。頑張ってやりなさい」と後押ししたんです。それで今村昌平監督(2006年没)が設立した「横浜放送映画専門学院」の演劇科に入学しました。

人気映画にエキストラ出演

 最初はまったく活躍する様子はなかったですね。専門学校を卒業後に仲間と劇団を立ち上げ、喫茶店でバイトをして、公演を年に2~3回やる。

 最初の公演が行われたのは、客席の椅子もなく、座布団が50~60枚敷かれた小さなスペースでした。それでも毎回、親や友達を計20人くらい引き連れて見に行きましたよ。家族みんなで一生懸命応援しました。

 それから2年くらい経って“寅さん”に出演させていただいたときは、自分のことのように本当にうれしかったですね。

〈『男はつらいよ』シリーズの第37作『幸福の青い鳥』(1986年)~第41作『寅次郎心の旅路』(1989年)にエキストラで連続出演。うなぎ屋の小僧役で、少ないながらせりふもあった。その後、第50作『男はつらいよ お帰り 寅さん』(2019年)にも出演している〉

『笑っていいとも!』(フジテレビ系)の「テレフォンショッキング」のコーナーに初めて出たときは放送後に電話があって、「兄貴、なんで花を出さないんだ! 花を出せばタモリさんが話を振ってくれるんだから!!」って。

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