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【どうする家康】戦国最強・武田氏はなぜ滅亡したのか?  決定打となった“金山管理の重臣”穴山梅雪の寝返り

戦国最強と謳われる武田家臣団の結束は信玄公のカリスマ性によるところが大きかった(甲府駅前に建つ信玄像)

戦国最強と謳われる武田家臣団の結束は信玄公のカリスマ性によるところが大きかった(甲府駅前に建つ信玄像)

実は薄かった武田家の経済基盤

 信玄の代には税制が簡略化され、家ごとに賦課する棟別銭と、耕作地の面積に応じて賦課する田役に大別された。田役は収穫物を換金してから収める田地銭と労働を提供する普請役からなり、堤防の建設・修繕に必要な労力は普請役によって担われた。毎年の収穫高を安定させるには水害を防止する必要があるため、通称「信玄堤」が造営されたが、その労力は普請役によって担われた。

 耕作地の占める比重が他国に比べて低いことから、豊作の年でも歳入不足が否めなかったため、信玄は金山開発と並び、換金性の高い特産品の生産加工を奨励。これにより、甲斐と言えば漆の名産地として知られるようになった。

 一連の改革で武田領の財政は大幅に改善されたが、戦争の連続ではそれも焼け石に水。武田家臣団の結束は多分に信玄のカリスマ性に負うところが大きかった。

 信玄から家督を継いだ勝頼は甲斐・信濃・西上野・駿河に加え、遠江の高天神城をも版図に加え、初めて海への出口を切り開いた。しかし、織田・徳川軍に惨敗した1575年の長篠・設楽原の戦いでは物量の差が如実に表われた。兵の数もさることながら、海外からの輸入に頼っていた鉛と硝石(それぞれ弾丸・火薬の原料)という、鉄砲を有効活用するに不可欠な軍需物資の多寡が、勝敗を決定づけたと言っても過言ではない。

 鮮やかな戦勝で、カリスマ性を獲得しようとした勝頼の目論見は脆くも崩れた。こうなっては、無理を重ねてきた財政に綻びが生じるのは避けがたく、苦しい台所事情をうかがわせる出来事もその後にあった。

 越後国が上杉謙信亡き後の後継者争いで揺れているとき(1578~1579年)、勝頼は北条氏康からの要請もあって、上杉景虎(北条氏康の実子)を後押ししていた。ところが、景虎と争っていた上杉景勝の陣営から、所領の割譲と黄金の進呈を持ちかけられると、たちまち景勝支持へと転じたのだ。

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