「物価は上がるのに、給料がなかなか上がらない」──世界的なエネルギーや食料価格の高騰を受け、日本でも多くの家庭が厳しい経済事情に喘いでいる。歴史作家の島崎晋氏によると、今年の大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康が創始した「徳川幕府」支配下の日本でも、武士は現代の家庭と似たような状況に置かれていたという。それは、戦国大名が鎬を削る戦時から、徳川家の一強支配による平時への移行過程で定められた経済の仕組みによるものだった。島崎氏が解説する。
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放送中のNHK大河ドラマ『どうする家康』では、5月以降、いよいよ大大名同士の激突が始まる。まずは織田信長(岡田准一)&徳川家康(松本潤)v.s.武田信玄(阿部寛)だ。前回の「信玄を怒らせるな」(第16回。4月30日放送)では、クライマックスで出陣を前にした信玄が家臣たちを前に次のような檄を飛ばした。
「天下を鎮め世に安寧をもたらす。それはたやすいことではない。織田信長、その器にあらず」「時は今。この信玄、天下を鎮め、人の心を鎮めるため、都へ向かう。敵は、織田信長」
戦乱の世を終わらせ、太平の世を築くのは自分でなくてはならない。そのために信長の打倒は不可欠と宣言したのだ。が、史実が伝える通り、信玄自身の手でそれをなすことは叶わず、戦時から平時への移行は、織豊時代を経た後、家康とその直系の子孫の手で達成されることになる。
「一国一城令」の発布や「武家諸法度」、「禁中並公家諸法度」(いずれも1615)、大寺院に対する個別の御法度の制定などは新たな秩序づくりの土台である。家康・秀忠・家光の3代がかりで、戦時から平時への移行が進められた。とくに家康の代にはその手始めとして、領主の居城を除いたすべての城の破却と、下剋上および他藩への移籍の禁止が定められた。
家康亡き後、島原の乱(1637〜1638)と寛永の飢饉(1642)を経て、百姓に課せられた軍役が撤廃されたことで、平時への移行は完成する。