武田家は「金欠」だった?
この一件は勝頼の評判を落とす結果となったが、それよりも注目すべきは、武田家中が著しい金欠に陥っていた可能性である。武田領内での金の産出量が減少を始めたからと説明されることもあるが、そもそも信玄時代の金の産出量からして過大評価されてきた疑いもある。
たとえば、信玄と金に関して、碁石のような形態をした碁石金にまつわる逸話がある。
信玄は軍功を挙げた者にすぐ恩賞を与えられるよう、戦場でも常に碁石金をそばに置き、自分の手ですくって与えたというのだが、その実例を伝えるのは江戸時代に入ってから編纂された『甲陽軍鑑』という書物のみ。しかも一件しか記述がないことから、貨幣経済史を専門とする川戸貴史はその著『戦国大名の経済学』(講談社現代新書)の中で、西脇康の先行研究『甲州金の研究 史料と現品の統合試論』(日本史史料研究会、2016)を引き合いに出しながら、「事実としてそのまま信じるのは危うい」としている。
つまり、碁石金の製造は甲斐国が徳川領になってからの可能性があるわけだが、川戸も前掲書で「武田信玄が活躍した時代にも甲斐で金の採掘が行なわれ、武田氏の影響下で流通していたことは確か」で、「それが同氏の財政を一定程度、潤していたことも否定できない」とし、武田軍の強さを「支えた要素の一つに金の生産があったと見ることは、無理な話ではないだろう」と結論付けている。
家臣の寝返りが武田氏滅亡の決定打
そうなると、鉱山の管理が誰の手で行われていたかが問題になる。当時、武田領内の金山では「黒川金山」と「湯之奥金山」の存在が抜きん出ており、黒川は武田宗家の直轄だったが、甲斐国南部の河内地方にあった湯之奥金山は、同地を所領とする穴山梅雪の管理下にあった。武田家重臣の梅雪は勝頼の親類でもあっただけに、「万が一にも裏切ることはない」と思われていたのだろう。