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野犬がうろつく新横浜に「ラーメン博物館」を作った男 「断られ続けた出店交渉」「実家を担保に多額の借金」

新横浜ラーメン博物館の創業者であり館長の岩岡洋志氏(撮影/木村圭司)

新横浜ラーメン博物館の創業者であり館長の岩岡洋志氏(撮影/木村圭司)

設立準備で全国400軒近くを食べ歩く

 当初は商業施設やシネコンなどの建設も考えたそうだが、「他所にないものを作らなければ人は集まらない」との信念から、最終的に行き着いたのが「ラーメン」というキーワードだったという。

「私は特別ラーメンに詳しかったわけでもありませんが、流行に左右されず、日本の食文化に馴染んだラーメンをテーマに全国の名店を集結させれば、必ず人を呼び込むことができると考えたんです。周囲からは『貸しビルにすれば安定収益が見込めるのに、なんでラーメンなんだ?』と訝しがる声もありました。日頃から『他人と違うことをやれ』と言っていた父親も、息子がいきなり『ラーメン』だ『博物館』だと訳の分からないことを言い出したので唖然としていましたね(笑)」

 こうしてスタートした前代未聞のプロジェクト。1991年5月、地元の友人や母校(青山学院大学)のラグビー部仲間とともに「ラー博設立準備室」を立ち上げた岩岡さんは、全国を飛び回ることになる。

「平日は会社で通常業務をこなし、週末になると全国のラーメン店を食べ歩く生活が始まりました。北海道から鹿児島まで400軒近い店を訪ね、私だけでも食べたラーメンは1000杯を超えるはず。1日に7杯平らげたこともありますし、費やした金額は交通費を含め300万円を超えると思います」

札幌「純連」、博多「一風堂」との出店交渉

 岩岡さんはラー博の模型を持ち運び、惚れ込んだラーメン店に自ら出店交渉を行なった。だが、店主たちの理解を得るのは一苦労。交渉は一筋縄ではいかなかったという。

「当時はフード・アミューズメントパークという業態が存在しなかったので、興味は示してくれても、なかなか首を縦に振ってくれない。新手の詐欺と間違えられることもありました(苦笑)。もっとも交渉が大変だったのは、ラー博のオープニングメンバーとなった札幌の『純連』さん(※ラー博での屋号は「すみれ」)。口説き落とすまでの3年間で50回以上は通ったでしょうか。断わられ続けても足を運び、信頼関係を築いていくほかありませんでした」

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