閉じる ×
トレンド

豊臣秀吉の朝鮮出兵は東アジア全体を「わやちゃか」にした その影響は「明の衰退・滅亡」にもつながった

戦乱による荒廃に大飢饉が追い討ちをかけた

 一方、秀吉による朝鮮出兵は明王朝にも大きな打撃を与えた。朝鮮への援軍派遣と前後して、西北部の寧夏と南西部の貴州で大規模な反乱が起こり、明の朝廷は大忙しである。これら3つの軍事行動は時の年号を取って、「万暦の三大征」と呼ばれる。

 戦争はとにかく金のかかるもので、「万暦の三大征」により、明王朝の国庫は一気に底をつく。

 財政逼迫を乗り越えるには、出費を減らすか、増税をするしかなさそうだが、明の朝廷は人員削減と増税を同時並行で進めた。その結果、増税に次ぐ増税はすべての民をひどく消耗させ、物価の高騰をも招き、軍需物資の不足や兵士への給与の遅配、未払い、集団解雇にもつながった。集団解雇は当時の郵便事業をになった駅伝にも及び、地方には失業兵士と並び、失業した元駅卒が溢れる状況となった。

 追い討ちをかけるように、1627年には陝西省の北部で大飢饉が発生する。もはや篤志家による炊き出しでどうにかなるレベルではなく、大地主や郡県の食糧庫など、蓄えのある場所から力ずくで奪うしか、命をつなぐ道はない。朝廷に盾突き、賊と認定されることに不安はあるが、背に腹は代えられない。地方のあちこちで人望ある人間を担いでの反乱が頻発した。

 陝西の地方官はその様子を、「流賊の由って起る所、大約六あり。反卒・逃卒(脱走兵)・飢民・響馬(馬賊)・難民これなり」と報告しており、その流賊のなかには、のちに明を滅ぼす元駅卒の李自成(り・じせい)の姿もあった。

 秀吉の朝鮮出兵の影響は別の方面にも表われた。明には精兵と呼べる部隊が少なく、倭寇の被害が最大規模に達した嘉靖30年代(1532~1541)には、正規兵が役に立たないことから、「狼兵」の名で呼ばれた広西のチワン族の手を借りねばならなかった。

 これではいけないというので、漢民族からなる精鋭部隊が育成され、遼東に配備されるが、寧夏で起きた反乱が下火に向かったと判断されるや、今度は朝鮮半島へ派遣され、その間、本来の任務である東北の異民族に対する監視と威圧が疎かに。

 この間隙を縫って台頭したのが女真族だ。初代のヌルハチは国号を金(後金)、2代目のホンタイジはそれを清と改め、3代目の順治帝の治世には明を滅ぼした李自成を破り、中華に君臨することとなった。

 日本の天下人が東アジア情勢全体に大きな影響を及ぼしたのは、後にも先にもこの一回きりだった。

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近刊に『featuring満州アヘンスクワッド 昔々アヘンでできたクレイジィな国がありました』(共著)、『イッキにわかる!国際情勢 もし世界が193人の学校だったら』などがある。

関連キーワード

注目TOPIC

当サイトに記載されている内容はあくまでも投資の参考にしていただくためのものであり、実際の投資にあたっては読者ご自身の判断と責任において行って下さいますよう、お願い致します。 当サイトの掲載情報は細心の注意を払っておりますが、記載される全ての情報の正確性を保証するものではありません。万が一、トラブル等の損失が被っても損害等の保証は一切行っておりませんので、予めご了承下さい。