天皇もこのような事態を座視していたわけではなく、醍醐天皇の延喜2年(902年)には最初の荘園整理令が出されている。有力な農民が田地や私宅を寄進して貴族の荘園することを禁じたものだが、その後何度も荘園整理令が発せられた事実から見る限り、効果は薄かったようである。
花山天皇が即位したのは永観2年(984年)秋のこと。劇中でも描かれたように、外叔父の藤原義懐(高橋光臣)と乳母子の藤原惟成(吉田亮)を重用した。義懐は道長の同母兄・伊尹の五男だから、兼家から見て甥にあたり、官職は権中納言。一方の惟成は7代前まで遡ってようやく兼家の先祖と重なり、官職は現在の秘書室に当たる蔵人所の次官である。
ちなみに、藤原兼家と藤原頼忠が祖父を同じくする従兄弟の間柄、兼家と源雅信が義理の父子の間柄で、年齢も比較的近かった。そんな3人が政治の枢要から外され、何ら実績のない若者に取って代われたのだから、面白いはずがない。
帝を「誰が補佐するかが大事」
ただし、花山天皇の荘園整理令が彼ら3人の力を削ぐためのものと断定してよいかどうかは疑問が残る。このとき対象となった荘園は延喜2年以降に新設されたものに限られるが、それより前か後かに関係なく、個々の貴族名義の荘園がどれほどあったか、そこからどれくらいの収入を得ていたかを知るに史料が絶対的に欠けているからである。
そのせいか、日本古代史を専門とする古瀬奈津子著の『摂関政治 シリーズ日本古代史6』(岩波新書)では、〈貴族たちの主たる収入は律令制にもとづく朝廷からの封戸(戸からの田租の半分、後には全部と調庸が収入となった)などであったと考えられる〉とし、道長が当主であった時期でも、〈摂関や公卿の家政にとって荘園はまだ大きな意味をもっていなかった〉としたうえで、〈(道長の子の)頼通の時代になると、摂関になると継承された荘園群が成立する〉と結論付けている。
同じく同書では、花山天皇が没収しようとした荘園はすでに設置から何十年も経過しており、実効性に乏しかったのではないかと推測している。すでに数世代を経た荘園の没収は容易なことではなく、1、2か所ならまだしも、全国いっせいに実施するなど、無謀に近かったからである。