白と黒のツートンカラー、ずんぐりむっくりとした体型。こちらを見つめるつぶらな瞳。その唯一無二の愛らしい動物は、いまから約50年前に海を渡ってやってきた。その系譜と足跡を振り返ると、決して「かわいい」だけの存在ではないことがわかってくる──。《特集「パンダがつないだ日本と中国の50年史」全文公開》
目次
6月12日、中国・四川省のジャイアントパンダ保護研究センターで暮らすシャンシャンが7才の誕生日を迎える。誕生日を前に、4月には在日中国大使館がシャンシャンのライブ映像をオンラインで公開し、東京・上野にある松坂屋でもイベントが催されるなど、祝福ムードは高まるばかり。
シャンシャンは2017年6月に東京の恩賜上野動物園で生まれたメスのジャイアントパンダだ。父はリーリー、母はシンシンで、花開く明るいイメージを込めて「香香(シャンシャン)」と名付けられた。上野動物園にとって“待望の赤ちゃん”だったシャンシャンは生後間もなくから愛らしい表情と、おてんばなしぐさが注目され、爆発的な人気を呼ぶ。同年12月に始まった抽選公開の倍率は144倍、一般公開は4時間待ちの大フィーバーで、昨年2月、惜しまれながらも中国に返還された際は、多くのファンが成田空港に駆けつけた。
1972年に初めて日本の土を踏んで以来、幾度ものブームを巻き起こし愛されているパンダの歴史を遡ると、動物園の人気者であると同時に、国と国を結ぶ重要な役割を担う一面が見えてきた。
1941年、中国が初めて「パンダ外交」に乗り出した
「パンダはものすごく政治に振り回されてきた動物なんです」
こう語るのは、『中国パンダ外交史』の著者で東京女子大学教授の家永真幸さん。それは野生のパンダの希少性が大いに関係しているという。
「パンダは世界中で中国にしか生息しておらず、外国との交渉において重要な価値を持ちます。1930年代後半にパンダの重要性に気づいた中国政府は、1939年に中国国内におけるパンダの禁猟を決定しました。
それまでは外国人が自由に中国のパンダを自国に持ち出していましたが、禁猟によってパンダは“いくらお金を積んでも手に入らない動物”になった。パンダがほしい国は必ず中国と交渉する必要が生じ、パンダは国際政治に利用できる中国特有の外交ツールになりました」(家永さん)
中国が初めて「パンダ外交」に乗り出したのは、1941年。相手は日本との開戦を控えたアメリカだった。元TBS記者で中国での特派員経験もあるフリージャーナリストの武田一顯(かずあき)さんが解説する。
「パンダが禁輸となる前の1936年、アメリカ人が中国で生け捕りにして連れ帰ったパンダが一大ブームを巻き起こしました。中国国民党の指導者・蒋介石の妻の宋美齢はアメリカにおけるパンダの爆発的な人気を知ります。
当時、日中戦争下で日本からの攻撃に苦しんでいた中国は、アメリカ国内で中国への同情的な世論を喚起するため、人気者のパンダを贈ることを思いつきました」
愛らしい白黒模様の動物を贈られた国の人々は、自然と中国に親しみを抱く。これこそ、中国のパンダ外交の狙いであると武田さんが続ける。
「中国でパンダは“友好の使節”や“最高の外交官”と呼ばれます。実際、パンダを贈られた国では大フィーバーが起こり、中国に対する感情が好転します」
1972年10月28日、2頭のパンダが日本の土を踏んだ
その代表的な国がほかならぬ日本だ。現在、日本に8頭いるパンダはすべて中国から「貸与」されたもの。
「1960年代から、日本はパンダの誘致に積極的な姿勢を見せてきました。しかし、戦後、日本は台湾に渡った中華民国政府と講和条約を結び、北京に成立した中華人民共和国とは国交を樹立していなかった。中国との関係が未成熟だったためパンダの来日はなかなか実現しなかったのです」(家永さん・以下同)
1958年にイギリスに贈られたパンダ「チチ」が話題になるなど、日本でもその存在に関心が高まる中、1971年に昭和天皇がイギリス訪問時に自らのご希望でロンドン動物園を訪れ、パンダをご覧になったことがブームの決定打となった。1970年代に入ると中国が国連に加盟し、アメリカのニクソン大統領が訪中するなど国際情勢が大きく変化する。
「西側諸国と歩調を合わせ、日本も1972年7月に首相になった田中角栄が中国との関係改善に乗り出しました。田中は日本の首相として初めて訪中する一方で台湾と断交し、中国の周恩来首相とともに日中共同声明に調印しました。
この日中国交正常化を記念して、中国から上野動物園にカンカンとランランという2頭のパンダが贈呈されることになりました」
NPO法人東京都日本中国友好協会事務局の松尾史生さんが話す。
「1950年代後半から、中国と国交を正常化する必要があるという声は少しずつ大きくなっていました。田中角栄さんの訪中は、そこに至るまでにアプローチを積み重ねた結果です」
1972年10月28日、2頭のパンダが日本の土を踏んだ。羽田空港には「康康さん」「蘭蘭さん」と筆書きされた檻が用意され、パトカーの先導で上野動物園に向かい、翌日の朝刊には《パンダ到着早くも愛きょう》との見出しが大きな写真とともに躍った。一般公開の初日には徹夜組を含む入場者が上野駅まで続く2kmの行列を作り、「2時間並んで、見物50秒」といわれるほどの大混雑を呈した。
上野動物園園長の福田豊さんが、当時の様子を記録から紐解く。
「当時、私はまだ中学生で熱狂のただ中にいました。大先輩たちの残した記録を読むと、当時世界中で7頭ほどしか飼育されていなかったジャイアントパンダを上野動物園で飼育管理することは本当に大変だったようです。喜びもあったでしょうが、未知の動物を飼育することへの不安や苦労が大きかったのでしょう。
それでも空前のパンダブームが巻き起こってたくさんのかたに動物園に足を運んでいただき、動物園の職員としてはすごくうれしかったはず。未知の動物を育てるチャレンジに情熱を燃やしていたと思います」
日本人を熱狂させたパンダは、まさしく「日中友好のシンボル」になったのだ。
「当時の日本国内は、中国との新しい関係が築かれることを歓迎するムードに染まり、高揚感が溢れていました。そのムードに花を添えたのが2頭のパンダです。以降、パンダは日中外交を語る上で欠かせない存在となりました」(家永さん)
「日中蜜月の時期」を迎えパンダは次から次へとやってきた
カンカンとランランが初来日して以降、それまでの“国交断絶”から一転、日本と中国はパンダ外交を介して良好な関係を築いていく。1979年にはランランが腎不全で死去したが、中国政府は残されたオスのカンカンの「新しいお嫁さん」として、すぐにメスのホァンホァンを上野動物園に贈った。
さらに1980年にカンカンが急死すると、日中国交正常化10周年にあたる1982年に、今度はオスのフェイフェイが来日。家永さんは、「中国の素早い対応の背景には、日中の強固な経済関係があった」と指摘する。
「日本は1970年代の終わりから対中ODA(政府開発援助)を開始し、中国の経済開発を支援していました。1970年代から1980年代にかけて両国の関係は『日中蜜月の時期』と呼ばれて、パンダは“友好の使者”の役割を担っていました」
ホァンホァンとフェイフェイの間にはチュチュ、トントン、ユウユウと3頭のパンダが生まれた。チュチュは生後43時間で早逝するも、トントンとユウユウによって第二次パンダブームが隆盛。1992年、繁殖適齢期を迎えたホァンホァンにパートナーを与えるため、ユウユウとの交換でオスのリンリンが北京動物園から日本にやってきた。
「この年は日中国交正常化20周年という節目で、それを祝うというメッセージもあったはず。リンリンが来日したのは歴史上はじめて天皇皇后両陛下の中国訪問が実現した直後でした。日中の距離の近さを、パンダの活発な往来が物語っています」(家永さん)
だが、21世紀に入ると、蜜月だった日中関係に亀裂が生じる。
2001年には、「自民党をぶっ壊す」のキャッチフレーズで小泉旋風を巻き起こした小泉純一郎首相(当時)が公約通り靖国神社を参拝し、中国メディアは激しく反発した。それが呼び水となったのか、歴史教科書問題などが渦巻く日本への不信感や不満が少しずつ噴出し、2004年に中国で開催されたサッカー・アジアカップでは中国人サポーターが日本代表に猛烈なブーイングを浴びせるなど反日騒動が勃発。その翌年には中国国内で反日デモの嵐が吹き荒れて日本料理店や日系スーパーが破壊されるなど、両国の関係は悪化の一途を辿る。
「経済で中国が日本を追い上げライバル関係となるなか、小泉首相の靖国参拝が中国を刺激した。小泉首相より前の小渕恵三政権の時代には、当時中国のトップだった江沢民国家主席が来日し、日本に対して繰り返し戦争謝罪を要求するなど少しずつ歪みが生まれていましたから。以降、日中両国民のお互いに対する感情が悪化し、日中関係は長期低空飛行の冬の時代に入っていきます」(武田さん・以下同)
石原慎太郎都知事の「いてもいなくてもいい」「法外な値段」発言
日本と中国に生じた深い溝に、パンダも無関係ではいられなかった。
2008年、上野動物園に残る唯一の生き残りだったリンリンが旅立った。直後に来日した中国の胡錦濤国家主席は、福田康夫首相(当時)との非公式夕食会で、パンダのつがいを日本に貸与する意向を表明。
だが、リンリンの死の直後に「パンダ様々でご神体じゃないんだから、いてもいなくてもいい」と発言した石原慎太郎都知事(当時)は、中国の意向に不快感を露わにし、パンダ2頭のレンタル料に年1億円かかると聞きつけ、「法外な値段。それまでして見たいかね」と猛反発。
2008年1月に中国製の冷凍ギョーザを食べた日本人が食中毒を起こす事件が発生して対中感情がさらに悪化していたこともあり、石原都知事の発言をきっかけに、都庁や上野動物園には、「金がかかるなら、福祉に役立てろ」「パンダはいらない」などという否定的な意見が殺到したのだ。
膠着状態が続くなか、商店主らでつくる上野観光連盟を中心に、要望書や署名、パンダを望む子供たちの寄せ書きなどを集め、ようやく2010年2月に東京都はパンダ受け入れを表明した。
「それでも、同年9月に沖縄県の尖閣諸島沖で中国漁船が日本の海上保安庁の巡視船に衝突する事件が発生し、またしても対中感情が悪化して、パンダを歓迎しない声が日本のメディアにも目立ち始めました」
祝福ムードとは言えない状況下で、2011年2月、オスのリーリーとメスのシンシンが日本に到着した。その直後、東日本大震災が発生し上野動物園は一時的に閉鎖。2頭の一般公開が始まったのは4月1日だった。関係者は一抹の不安を抱いていたが、震災と福島第一原発事故のショックが癒えないなか多くの人々はパンダをひと目見ようと行列を作り、動物園は通常より15分早く開園した。
「上野動物園が被災者をパンダ参観に招待するなどしたこともあり、2頭のパンダは疲弊した日本社会に束の間の安らぎを与えてくれました。
2000年以降の日中間の緊張した雰囲気とは打って変わり、日本社会はパンダを歓迎し、再びフィーバーが起こったのです。これぞ、パンダの持つ魅力としか言いようがありません」(家永さん)
風向きは確かに変わった。冒頭で紹介したように2017年には、リーリーとシンシンの間にシャンシャンが誕生。これまでにない盛り上がりを見せ、日中両国はパンダの誕生を祝福するメッセージを発表した。シャンシャンの命名後に中国外交部の報道官が出したコメントに中国の思惑が透けて見える。
「パンダは中国の国宝であり、中国と多くの国の人々の間の重要な友好の使者である。私たちはパンダが引き続きそのような作用をうまく発揮してくれることを望んでいる」
絶滅の危機に瀕した希少動物がゆえに「レンタル」されて繁殖研究
シャンシャンは中国から「貸与」されたので中国に返還されたが、振り返れば国交正常化(1972年)直後に海を渡ってきたランランやカンカンは貸与ではなく「贈呈」されていた。家永さんが言う。
「その背景には、パンダをめぐる国際ルールの変化があります。そもそもパンダは絶滅の恐れがあって保護対象になっている動物です。そのため野生動植物の保全を目的とするワシントン条約により、1984年にパンダの国際商取引が原則的に中止されました。
その代わり、パンダをほしがる外国の動物園には繁殖研究を目的として、オスとメスのパンダを長期的に貸し出すルールになりました。以降、パンダは最初から中国に返す約束で来日しています」
日本に贈呈されたのは、最初のランラン、カンカンから、1992年にオスのユウユウとの交換で来日したリンリンまで。新ルールは繁殖研究が目的のため、生まれてきた子もいつかは中国に返さねばならない。
保護対象の動物だけに飼育も簡単ではない。福田園長が言う。
「われわれにとってパンダは“かわいい動物”というだけではなく、独特の進化を遂げ、絶滅の危機に瀕している非常にめずらしい動物なのです」
実際、飼育には細心の注意を払うと続ける。
「パンダはクマ科に分類されている危険な動物でもあるので、担当者が軽々と体に触れることはできません。飼育は基本的に中国のマニュアルに則り、個体の性質などによってプラスアルファします。担当者が中国に行って研修を受けたり、向こうの専門家に来てもらって指導を受けたりして、ベストな状態の維持を心がけていて、若手とベテランを組み合わせた“チーム上野”で対応しています」(福田園長・以下同)
施設基準は動物愛護法によって定められ、上野動物園のパンダは40平米ほどの個室で単独生活を送る。床は土ではなく石畳で周囲には鉄製の柵があり、室内は薄暗いという。特に慎重さを求められるのが繁殖だ。
「パンダはとりわけ繁殖が難しいとされる動物種です。パンダの大人は100kgを超えますが、子供は150g程度で非常に小さく生まれます。その小さな子を無事に育てるにはさまざまなリスクがあり、担当者は危険度合いに応じて24時間体制で対応しています。それでも繁殖は難しく、リーリーとシンシンの間に生まれた最初の赤ちゃんは生後6日で死んでしまいました」
上野動物園では24年ぶりに生まれた赤ちゃんパンダの悲劇から学習を重ねて、5年後に生まれたシャンシャンは「チーム上野」が立派に育て上げた。
そのシャンシャンが中国に返還される際も、さまざまな面に気を配ったという。
「中国に輸送する際はトラックに積んだり飛行機に乗せたりするので温度や明るさ、雑音などでストレスを感じて体調が悪化するリスクがあるので、なるべくストレスを感じさせないよう健康管理や食事に気をつけました。担当者が感傷的に振る舞って、シャンシャンが“私、ここを去るんだな”と察したらそれがストレスになるので、決して悟られることのないよう最後の日まで普段と同じように接していました」
パンダの貸し出しはトップ外交の成果、日本からパンダがいなくなる可能性も
上野動物園のパンダ以外でも、繁殖研究目的のため1994年には和歌山のアドベンチャーワールドにエイメイとヨウヒンの2頭が貸し出され、その後来日したメイメイが産んだ良浜は10頭の赤ちゃんを産むなど、“日本一の大家族”となった。
2000年には、兵庫県の神戸市立王子動物園にもコウコウとタンタンの2頭が貸し出されたが、2010年にコウコウ(2代目)が亡くなり、今年3月にはタンタンが天国へ旅立って王子動物園からはパンダが消えた。王子動物園だけでなく、秋田や仙台などがパンダ誘致に名乗りを上げているが、ラブコールはなかなか届いていない。
家永さんは「停滞する日中関係を打開しようとする機運は何度かあった」と分析する。2019年には、安倍晋三首相(当時)が中国の習近平国家主席に国賓として来日するよう招聘した。
「国内では新たなパンダ来日への期待が高まり、複数の都市が誘致に前向きな姿勢を示しましたが、新型コロナの流行もあり習氏の訪日は実現しておらず、パンダ外交も滞っています」(家永さん・以下同)
家永さんは理屈上、国内のパンダがゼロになる可能性もあると指摘する。
「借りているパンダなので、当然いつかは返すことになります。延長を申し入れたときに日中関係がものすごく冷え込んでいたら、中国は期限通り回収し、新規の貸与にも応じないでしょう。
ただし中国にとってパンダは外交上の重要なツールで、相手国に送り出すことに意義を見出しています。日中国交正常化や、日中平和友好条約の周年といった節目のタイミングで、日本にパンダを歓迎する雰囲気があると見越せば、中国がパンダの提供を申し出ることは充分あり得ます」
その好例がアメリカだ。昨今、米中対立が深まるなか、これまでアメリカに貸与されていたパンダは貸出期限が延長されず、相次いで中国に返還されていた。だが5月29日、ワシントンの国立動物園はパンダ2頭が新たに中国から貸し出され、年内にも動物園に到着すると発表。米メディアは米中両国が関係の安定化を図ろうとする動きの一環との見方を伝えた。
「結局、パンダの貸し出しはトップ外交の結果です。アメリカにパンダが来るのも昨年、習近平国家主席とバイデン大統領が直接会ったから。最終的にパンダの貸し出しを決定するのは習氏なので、日本はパンダがほしければ習氏を国賓として日本に呼ぶ必要があります。中国の台頭を嫌がって習氏の訪問を避けるような対中路線ではなく、堂々と日本を訪問してもらえばいい。重要なのはトップ同士の対話であり、それがパンダに近づく道でもあります」(武田さん)
新たなパンダが日本を訪れるとき──新時代の日中友好史の幕開けかもしれない。
※女性セブン2024年6月20日号