さらに年齢が重なり、1980年代、公明党が「共産抜きの野党共闘」をにらんで社会党、民社党とのブリッジ役を果たした「社公民」路線期や、その後、連携相手を革新の社会党から保守の自民党に切り替え、主に国会を舞台とした「自公民」路線期を見ていた世代にとってみれば、「公明党が紆余曲折を経た結果、連立政権に行き着いた」というものになるだろう。
自公関係についてのこれらの認識、見方の違いはメディアによって表ざたになっている事象を基にしている。重要な出来事があっても当事者が口外せず、メディアもその事実を突き止められなければ一般の人々にとっては「なかったこと」と認識される。しかし、表立って物事が変化する時には水面下でさまざまな出来事が積み重なっているものだ。
水面下での出来事は時間を経て明らかになることがある。一気に全体像がわからなくても当事者の証言などを照合することで輪郭が浮かび上がることもある。自公関係の起点を支持母体の創価学会との関係も含めてさまざまな資料からたどってみると、1955年の自民党結党直後にまでさかのぼることができる。
創価学会第2代会長の戸田城聖氏は岸信介元首相のことを「友人」と表現
1958年3月16日、創価学会第2代会長の戸田城聖氏は、静岡県富士宮市にある日蓮正宗大石寺に青年部員6000人を集めて式典を催した。戸田氏は、この式典に当時の岸信介首相を招待、岸氏もこれに応じて途中まで向かったが、側近議員に説得されて断念。代わりに夫人と娘夫妻である安倍晋太郎夫妻を出席させた。