高利貸、投機、通行税徴収、転売で儲けた日野富子
「鶏が先か卵が先か」という言葉があるが、富子による執政と利殖活動の関係はまさにそれだった。来るべき時に備えて蓄財に邁進したのか、蓄えが十分あったから怯まず前面に出たのか。
中世の権力者は夫婦がそれぞれ自分名義の財産を有しており、一方が相方の財産を勝手に使用することはできなかった。富子は自身の直轄地と諸々の動産を有していたが、幕府を運営するとなると、そこからの税収だけではとても足りない。富子はいつの頃からか、高利貸や米の買い占め、関所の新設、献上品・贈り物の売却など、投資ともリスクマネジメントとも解釈可能な、さまざまな利殖活動に手を染めていた。
これらのうち高利貸は質屋経営、米の買い占めは不作の年に高値で販売する投機事業への参入を意味している。関所の新設は、都へ運ばれる物品に通行税を課すことを意味していた。新たな関所は俗に「七口の関」と呼ばれたが、「七」は概数で、実際に置かれた新関所は7か所とは限らなかった。
室町時代の京都は政治の中心であると同時に経済の中心でもあり、当時の日本で最大の物資集散地だった。それだけに関所から上がる収益は莫大だったが、反発する声も強い。室町時代初期に設置された関所が、長禄3年(1459年)に撤廃された経緯もあった。
一度撤廃したものを復活させるには、それなりの大義名分が必要で、富子は内裏修造費用の捻出を口実としたが、これには後日譚がある。徴集された関銭が「実際には内裏の修復に用いられず、富子の懐に入った」との風聞が流れたことから、天明12年(1480年)に徳政一揆が起きた際、かっこうの標的とされ、徹底的に破壊された。
富子は土倉役から上がる利益を守るため、徳政一揆に対しては一貫して武力弾圧で臨んだ。そうした事情も重なり、どうやら早くもこの頃には、“守銭奴の悪女”とする世間のイメージが定着していたようだ。