存続のため、幕府は「政府から企業に」転身を図った
献上品・贈り物の売却には少し説明が必要だろう。日本には平安時代の昔から、節句のたびに権力者に付け届けをする習慣があり、室町時代には将軍と将軍の正妻もその対象とされた。
たとえば、旧暦の8月1日は八朔と言って、恩人に初穂を贈る習慣が古くからある。富子が幕府の実権を握っていた当時、八朔の進物を届ける人びとの行列が1、2町にも達したとも伝えられる。1町=109メートルだから、大変な行列である。並んだのは大名や寺社の使いで、進物の中身は刀剣や唐物、生きた馬など。必ず見返りがあるわけではないが、存在を忘れられないためには必要な投資だった。
富子はこうして蓄えた「御物」を売却、あるいはオークションにかけることで金銭に替えていた。日本中世史と流通経済史を専門とする桜井英治(東京大学教授)は著書『室町人の精神 日本の歴史12』(講談社学術文庫)の中で、富子のやり方について、次のように説明する。
〈すでに応仁・文明の乱前から幕府は税収の拡大による財政再建の道をあきらめ、贈答儀礼や種々の手数料収入、「御物」の放出といった企業的な収益拡大に向かっていたのである。日野富子の利殖活動もそのような文脈のなかで理解しなければならない〉
室町幕府は存続のために、「政府から企業へ」と転身を図り、富子の時がまさにその転換期だったとの解釈である。
なぜ、日野富子は応仁の乱の「悪人」に仕立てられたのか
富子の時代、京の市中の大半は前述した「応仁・文明の乱」の戦禍により灰燼と化したが、そもそもこの戦乱は三管の1家である畠山家の相続争いに端を発している。
三管の「管」は将軍の補佐役にして室町幕府ナンバー2の「管領職」を指す言葉で、足利一門の斯波・細川・畠山の3家が交替で務めていた。野心ある者はこの3家と姻戚関係を結んでいたから、畠山家の中でも誰が当主になるかは大きな問題である。ひとたび武力衝突が起きれば、畠山家内の家督争いで済むはずはなく、事実、将軍家や全国の大名を巻き込む大乱と化した。
従来、応仁・文明の乱の原因のひとつとして、将軍家内の後継者争いが挙げられ、富子を元凶とする説が唱えられていた。が、中世史を専門とする呉座勇一(国際日本文化研究センター助教)は、著書『陰謀の日本中世史』(角川新書)の中で、そうした説は1520年頃に成立した軍記物『応仁記』に起因する虚構であると指摘。〈虚構を成立させるために〉『応仁記』は日野富子らに〈濡れ衣を着せた〉としている。
その動機は戦乱の終息にあったようだ。11年に及んだ応仁・文明の乱は、敵と味方が入り乱れながら、収束に向かっている。戦乱当事者の中でも〈トップ同士は政治的な利害関係を重視し、「昨日の敵は今日の友人」と割り切れる〉が、それでは納得できない家臣たちを説得するために、『応仁記』では〈富子をスケープゴート〉にしたとの見解を呉座前掲書は示している。
たしかに、儒学の影響の強い日本史の性格上、女性権力者に全責任を負わせる説明は衆人の納得を得やすく、蓄財に狂奔した富子は当時からイメージが悪かった。それに加え、富子自身は明応5年(1496年)に亡くなり、(『応仁記』が成立した)1520年頃には富子のために声を上げる親族もすべて故人となっていたから、富子をいくらでも悪人に仕立てることが可能だった。死人に口なしの典型例でもある。
戦乱で疲弊した京都にとって日野富子は大恩人だった
実際問題として、応仁・文明の乱後の京都にとって、富子は大恩人だった。乱の当事者である畠山義就の撤退が金銭的な事情で遅れていたとき、気前よく1000貫文もの貸し付けをしたのが富子で、これにより京都ではようやく市街の復興を本格化させることができた。
また、資金不足から内裏の修繕もままならず、天皇の即位式さえ実行できずにいた朝廷に多額の献金を行い、朝廷の顔を立ててくれたのも富子なら、乱の開始から3年で洛中洛外の神社仏閣がほとんど灰燼に帰し、自力での復興は絶望的と思われた状況下、私財を投じ、できる限りの援助をしてくれたのも富子だった。
戦乱で疲弊した京都にとって富子は掛け値なしの救いの神。富子という篤志家がいなければ、京都の復興は大幅に遅れていたはずだ。手段はどうあれ、復興の原資となった資金は富子が貯め込んだものに違いなく、富子の投資による受益者は朝廷と幕府、大小の寺社だけでなく、一般住民を含めた京都全体と言うことができよう。
呉座前掲書は〈富子は私利私欲のためだけに金儲けに走ったのではなく、富子の莫大な富が傾きかけた幕府財政を支えたという一面もあった〉とするが、まさしくその通り。富子が行動を起こさなければ、幕府と朝廷はどうなっていたかわからない。曲がりなりにも京とその周辺の秩序を回復できたからこそ、幕府と朝廷の面子は何とか保たれ、京都はその後も政治の中心であり続けた。
戦国時代が本格化してからも、地方の有力大名が上洛に拘り、京都とのつながりを断たずにいたのは、まだ利用価値があると判断されたから。応仁・文明の乱を終わらせ、京都全体を復興させただけでなく、京都の権威と役割を朽ちさせなかったことも、富子による投資のリターンに数えてよいだろう。
(シリーズ続く)
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』など著書多数。近著に『呪術の世界史』などがある。
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