最後に判断するのは人間
実際、たとえばロシアとウクライナの戦争やイスラエルとハマス、ヒズボラ、イランとの紛争はどうすれば終結するのか、いまだに答えは出ていない。
テレビや新聞では専門家と言われる人たちが解説しているが、それは答えではない。彼らは当該地域の歴史や地理、人物の名前などをよく知っているだけであり、「正解」は持っていないし、間違えることもよくある。「答えはない」という前提で、それを探す努力をしなければならないのに、彼らは「正解」があると思っているから、その時点で終わっているのだ。
そういう人たちの解説を見聞きしてわかったつもりになっては絶対にいけない。それは21世紀において最も忌み嫌うべき態度である。
もちろん、生成AIが出してくる答えも「正解」ではない。「正解」は時間の関数であり、今日出した答えは明日になったら間違っているかもしれない。言い換えれば、AIが出してくる答えは“日替わりメニュー”なので、それを採用するかしないかは人間の判断だ。時々刻々と「正解」が変わっていく中でAIに質問を投げかけ、自分で答えを探していくしかないのである。
教科書も日々更新される時代に後れをとる日本
それは、教育も同じだ。
いま世界各国ではデジタル教科書が拡大中である。たとえば、先進的な電子政府で知られ、2018年の国際学力テストでトップ級に躍り出て世界を驚かせたエストニアは、10年前にデジタル教科書を本格導入し、その内容を月に30回もアップデートして常に社会の最新情報を取り込んでいるという(日本経済新聞2024年5月9日付)。それが21世紀の教育の在り方なのである。
一方、日本はようやく2024年度に小学校5年生から中学校3年生に対して英語のデジタル教科書の提供を始めた。だが、その内容やレイアウトは法律で「紙と同じ」と決められている。
日本の教科書は、基になる学習指導要領の改訂がおよそ10年に一度、国による教科書の検定がほぼ4年に一度しか行なわれないため、デジタル化されてもエストニアのように社会の最新情勢を取り込むことはできない。小学校で生成AIに関する記述が登場するのは、最速で2028年度に使用が始まる教科書となる見通しだというから、絶句するしかない。