山を切り崩し、海を埋め立て城下町を造成
秀吉は京都と大坂で大普請を重ね、それが落ち着いたと思いきや、今度は朝鮮出兵に乗り出した(1592年〜)。全国の大名が動員される状況下、家康の例外ではなく、江戸を留守にする期間が長くなったため、江戸城と城下町の建設も小休止を余儀なくされた。
江戸の大改造が再開というか本格化したのは、関ケ原の戦いに勝利し、朝廷から征夷大将軍の宣下を受けた慶長8年(1603年)からで、徳川幕府(江戸幕府)の本拠地に相応しい巨大な城と城下町を築く大工事となったことから、天下普請と呼ばれる。
一番になすべきは、大量の資材搬入ができる規模に船着き場を大拡張すること。それが済んだら次は江戸城の大増築と城下町の建設であり、将軍のお膝下に相応しい城下町を築くには、広大な湿地帯や浅瀬、海抜ギリギリの砂洲などを陸地化する大掛かりな埋め立てが必要だった。
大量の土砂を遠方から運ぶのは大変なので、家康は現在の御茶ノ水駅付近を頂上とした神田山という丘陵を切り崩し、埋め立てに当たらせた。このとき陸地化された日比谷入江は現在の日比谷公園から新橋駅一帯に当たり、それが終わると、同じく神田山の土砂を用いて現在の日本橋浜町から新橋駅一帯が埋め立てられた。
神田山の切り崩しと埋め立てと並行して、埋立地での水抜きや道三堀をはじめとする、江戸城を中心にした渦巻状の運河の開削も行なわれた。かくして完成した城下町の中でも、江戸城に近い場所は旗本や親藩・譜代大名に屋敷地として与えられ、海側の低地は商人や職人たちに町人地として与えられた。
「武家の棟梁」として全国の大名を使役
一連の普請と並行して、人工池「溜池」の造成、日本橋の架橋、東海道の整備なども進められ、江戸への人の出入りは陸路、物資のそれは海路を含む水路、江戸市中の移動も懐に余裕のある者は水路か駕籠を利用する生活様式が定着していく。
江戸が100万都市になるのはまだ先だが、北条時代の江戸を知る人から見れば、家康が晩年を迎えた頃の江戸は別世界に見えたはずである。天下大普請はそれくらい大掛かりなものだった。