当然ながら、徳川家と譜代・親藩のだけの力で実現できたわけではなく、家康は加藤清正・細川忠興・前田利長・伊達政宗ら外様をも含めた大名70家に対し、1000石あたり1人(10人説も)の人夫「千石夫」を供出するよう命じていた。
大坂城にいまだ豊臣秀頼がいる時点のことだから、家康からの動員命令に対し、諸大名がこぞって応じたことの意味は大きい。中世史を専門とする池上裕子(成蹊大学名誉教授)は著書の『織豊政権と江戸幕府 日本の歴史16』(講談社学術文庫)の中で、〈将軍家康が、秀吉・関白にかわって、全国すべての大名に対し、軍役(知行役)としての普請役を賦課しうる権力であることがはっきりと示された〉と、事の重大性について詳らかに説いている。
豊臣政権の一員だった家康が、全国の大名を使役する際のリスクマネジメントとして重視したのが、その権力の正統性を担保することだった。それは家康自身の「姓」や「苗字」の用い方に表れる。
家康の本来の姓は松平で、今川家からの完全独立を機に清和源氏新田流の徳川に改め、豊臣政権下では苗字として羽柴、姓として豊臣を称することを許された。徳川を苗字、源を姓に戻したのは関ケ原の戦い前後で、池上前掲書はこの点について、〈家康は鎌倉幕府・室町幕府の将軍と同じ源氏を称してその氏長者の地位を得ることで、武家の棟梁として将軍になることの正統性を獲得した。秀吉の関白政権とは異なる、幕府という伝統的な武家政権の形を選んだ。信長、秀吉と模索してきた新しい政権の形の追求を止め、源頼朝をもち出して、その継承をうたうことになった〉と、鎌倉幕府を開いた源頼朝を意識した選択との解釈を示している。
同じく中世史を専門とする黒田基樹(駿河台大学教授)も著書の『徳川家康の最新研究 伝説化された「天下人」の虚像をはぎ取る』(朝日新書)の中で、〈武家政権の首長として征夷大将軍に任官するには(中略)源氏であることが相応しい〉というのが、家康の心算と推測している。
信長、秀吉の轍を踏まなかった「家康の執念」
さらに池上前掲書は家康の選択を〈現実路線の選択〉とし、理由として以下のような社会不安の存在を挙げている。
〈秀吉死後、武家は分裂・抗争の危機の中にあった。関ケ原の合戦はその最初の大激突であって、なお戦争の危機は去っていなかった。他方、社会の底流には大量の牢人、武士の道を絶たれた地侍やもと奉公人層の不平・不満が鬱積し、戦争待望感もあった。その両方が結びついて戦乱に発展する可能性は少なくなかったから、武家の結集・統合が当面する緊要の課題であった。そこで何よりも武士階級を束ねる権限の正統性を必要とし、それを武家の棟梁=源氏将軍に求めたのだ〉