明治14年(1881年)に描かれた上杉鷹山の油絵(東京国立博物館所蔵の「上杉鷹山像」より。出典:ColBase https://colbase.nich.go.jp)
鷹山は10歳で養子となり藩主としての「帝王学」を叩き込まれた
重定には実子がないため、他から養子を迎えることが決まっていた。その人物こそ、のちの上杉治憲(隠居後の号を鷹山とした)である。
鷹山は日向国(現在の宮崎県)の高鍋藩主・秋月種美の二男として同藩江戸屋敷(麻布一本松邸)で生まれた。母方の祖母が米沢藩4代藩主・上杉綱憲の娘だったから、生母は8代藩主・重定の従姉に当たる(鷹山の母と重定は4代・綱憲の孫同士)。
宝暦10年(1760年)、10歳にして上杉重定の養子となり、江戸城桜田門の向かいに建つ米沢藩江戸屋敷(桜田邸)へ。そこで同藩江戸家老の竹俣当綱と侍医の藁科松伯、および儒者の細井平洲から教育を受けた。儒学を中心とし、明君となることを期待された英才教育で、文字通りの帝王学に他ならなかった。
明和4年(1767年)4月、17歳にして家督を相続。同年10月には初めて米沢に入るが、この時詠んだ短歌には、「受け次ぎて 国のつかさの 身となれば 忘るまじきは 民の父母」とあった。ここにある「民の父母」は儒学の基本経典の『詩経』や『孟子』にも見える言葉で、民をわが子のように慈しみながら政治を執り行なう君主の理想像を指しており、同時期に上杉家の祖神を祀る春日社(山形県米沢市)に奉納された誓詞にも同じ言葉が見える。先に挙げた「富国安民」と意図するところはいっしょで、鷹山が生涯疎かにすることのなかった政治姿勢でもあった。
鷹山にとって倹約による不自由は「道徳の問題」だった
極端な言い方をするなら、財政再建の要は支出を極力減らし、収入を極力増やすことに尽きる。鷹山は自ら手本となるべく、藩主の座を譲られてから国入りするまでの半年間、衣服は綿衣に限り、食事は一汁一菜、仕切料(衣食・交際費など)はそれまでの藩主の7分の1に抑え、奥女中の数を50人から9人に減らすという極端な勤倹生活を試みた。
鷹山はこのような勤倹生活を隠居後も、さらには永眠するまで続けたが、近世の藩政史・交通史を専門とする横山昭男(山形大学名誉教授)は著書『上杉鷹山』(吉川弘文館)の中で、鷹山の心中を次のように分析している。
〈倹約からくる生活の不自由、これは鷹山にとって経済の問題ではなくて、道徳の問題なのである。倹約による不自由が、物心両面の我儘を抑える「今日の厳師友」であるという、まさに厳しい禁欲的精神をここからうかがうことができる〉
ここにある「厳師友」とは、鷹山が頼みとした2人の側近、竹俣当綱と莅戸善政を指しており、どちらも細井平洲の門下生だった。鷹山より年令も上なら、鬼籍に入ったのも早く、この2人亡き後の鷹山は、倹約による不自由を甘受することで、物心両面で放縦に走ることなきよう、自己を律し続けたという意味である。