江戸時代には支配層である武士だけでなく、被支配層である農民や町民まで幅広い層が「読み書き算盤」を中心とした教育を受ける機会があった。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第13回後編は、江戸時代に社会の各層で行なわれた「教育投資」が明治以降の日本にもたらしたリターンについて考察する(第13回・前後編の後編。前編から読む)。
初代岡山藩主の池田光政が1641年に開設した花畠教場の生徒は、8歳以上で前髪のある小生と、19歳未満で前髪を落とし済みの大生からなり、小生には習字、読書、習礼(礼儀作法の学習)、槍術、大生には四書五経、史書、乗馬、鉄砲、音楽を修業させた。
全国の諸藩で藩校の設立が盛んになるのは、財政再建や幣制改革が焦眉の急と化した18世紀中頃からだが、状況証拠からすると、どこもが花畠教場を手本にしたように見受けられる。特に寛政の改革が実施された18世紀末以降は、低い家柄の出身でも学識豊かで有能であれば要職に抜擢される例が珍しくなくなったので、利己的な目的で学問に励む藩士も増え始めた。
ただし、藩校の教育内容も時代の要求に合った改変を免れず、内外情勢が緊迫を増し始めた同じく18世紀末以降、医学や天文学、西洋科学など、実学が増える傾向にあり、医師や儒学者、蘭学者などによる私塾の開設も盛んになった。
倒幕に走った諸藩の藩校や私塾の「共通点」
幕末の雄藩と言えば、薩長土肥の4藩が抜きん出た存在で、薩摩藩では第8代藩主の島津重豪が安永2年(1773年)に諸武芸を学ぶ演武館や医学を学ぶ医学院を併設した藩校の造士館を設立。第11代藩主の島津斉彬は教科に日本の古典や歴史、西洋科学など幅広い科目を加えさせた。「維新の三傑」に数えられる西郷隆盛や大久保利通、日清戦争と日露戦争時の日本海海戦で名を馳せた東郷平八郎も造士館の出身者だった。
人材を輩出した点では長州藩の明倫館や肥前佐賀藩の弘道館も負けてはいない。弘道館からは明治政府で活躍する副島種臣、早稲田大学の創設者でもある大隈重信、「近代日本司法制度の父」と称される江藤新平らが巣立ち、吉田松陰が教鞭を執ったこともある明倫館からは明治の陸軍で重きをなした山縣有朋や「維新の三傑」の1人に数えられる桂小五郎(木戸孝允)らが巣立っていった。
これらの倒幕に走った諸藩の藩校や私塾には、ある共通点があった。儒学を教育の柱としながら、幕府が正統教学と認定した朱子学ではなく、異端とされた陽明学を重んじた点である。