「富国安民」を貫いた米沢藩9代藩主・上杉鷹山(時事通信フォト)
飢饉などにより経済情勢が悪化した江戸時代の後期(天明〜寛政期)には、幕府による改革のほかにも、田畑の再開発や特産品の生産に取り組む殖産興業、専売制の強化など独自の藩政改革に取り組む藩が相次いだ。なかでも藩主・上杉鷹山自らによる徹底的な勤倹生活で知られ、後世に語り継がれているのが「米沢藩」だ。歴史作家の島崎晋氏が「投資」と「リスクマネジメント」という観点から日本史を読み解くプレミアム連載「投資の日本史」第15回(前編)は、上杉鷹山による藩政改革の端緒について取り上げる。【第15回・前後編の前編】
江戸時代の明君と言えば、「享保の改革」で知られる8代将軍の徳川吉宗(1684〜1751年)と、米沢藩9代藩主の上杉鷹山(1751〜1822年)を挙げる人が多いのではないだろうか。
二人に共通するのは財政再建と民の安寧を両立させたこと。とりわけ鷹山には富国強兵ならぬ、富国安民(民を安心させる)の考え方が際立っていた。鷹山の藩主時代・隠居後の改革を見る前に、当時の米沢藩が陥っていた苦境について触れておきたい。
米沢藩が位置したのは現在の山形県東南部。「敵に塩を送る」の故事で知られる戦国大名・上杉謙信を藩祖とする大国だったが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、会津120万石から30万石に減封。さらに寛文4年(1664年)には3代綱勝が後嗣を定めず急死したことを咎められ、半分の15万石に減らされた。これだけ所領が狭くなったにも関わらず、藩士の数を減らさなかったこと、さらには吉良家から養子入りした4代藩主・綱憲(吉良上野介の長男)の浪費癖がダメ押しとなり、米沢藩は全国のどの藩より早く財政難に見舞われることとなった。
疲弊していたのは農民もいっしょで、年貢の引き上げや新規の課税に加え特産品の青苧(縮織に用いる糸の原料)に関わる作業負担が非常に重く、本業である農作業に支障を来していた。それに宝暦5年(1755年)の凶作と宝暦7年(1757年)の洪水がダメ押しとなり、破産して村を捨てる農民が続出。領内の人口は減り続ける一方で、手余り地(耕作放棄地)が急増する事態となった。
この時期、米沢藩が抱える借金は年間収入の5〜6倍にあたる20万両(200億円)まで膨らんでいたとされる。
藩士からの借上げ、内外商人からの借金、家具や武具の質入れ……。これだけやっても一向に事態の改善が見られないことから、8代藩主の上杉重定は幕府に対して領地の返上を申し出る決意を固めるが、尾張藩主・徳川宗勝らの励ましを受け、思いとどまった。
とはいえ、重定には妙案が浮かんだわけではなく、頼みとした側近・森平右衛門による改革も効果を上げるどころか、藩と森一族の利益のみを追求するものだったため、領民や商人たちとの信頼関係にひびを入れるだけに終わった。