家族を守るために2300万円の借金を
ふたりは離ればなれだった時間を取り戻すように毎日、日が暮れるまで遊んだ。しかし、平穏な日々は長くは続かない。1941年に太平洋戦争が始まり、戦線の激化とともに姉妹が住む堺も1945年に空襲を受け、都司子さんが住んでいた家が全焼してしまう。
都司子「住んでいた祖母の家が焼けてからはトキちゃんの家で実の両親や祖母などみんなで暮らすようになった。慣れない家で私が遠慮していると、いつもトキちゃんがかばってくれんねん」
戦中・戦後の苦しい時期を共にたくましく乗り切ったふたりだが、結婚によって再び離ればなれになる。都喜子さんは1959年に建設会社社長の息子と結婚。都司子さんは出版社の社員と1958年に結婚した。ふたりとも子宝に恵まれたが、「男運」は悪かった。妹・都司子さんの夫は結婚後、脱サラして運送業を始めた。
都司子「当時は儲かっていて、100坪の家のほか、マンションも2軒持ってたわ。でも夫は遊んでばっかの浪費家で家にお金を入れてくれへんねん。だからほんまに始末した生活(*節約生活)をしとった」
姉・都喜子さんの結婚生活はさらに壮絶だった。
都喜子「嫁いだときは舅の会社が坂を転げ落ちるように没落していたころ。新婚生活を味わう間もなく、金策のため毎日のように銀行に通った。娘を産んだ頃は何度目かの不渡りを出して、家も会社も全部差し押さえられたんや。生活のために必死に働いて、倒れたこともあった」
以降、貧しい生活を余儀なくされた都喜子さん。その上、夫の女遊びも悩みの種だった。
都喜子「もともと主人は“飲む打つ買う”の人やったからな。だから、いつしか子供は私が守らなあかんと思うようになった」