その後、拡大路線に舵を切ったのは大正から昭和にかけて大学経営を担い、「中興の祖」と称される3代目総長の山岡万之助(1876~1968年)である。
運営資金が足りない中、「(学生が)多ければ多いほど経営が楽になる」として、芸術学部の前身である法文学部美学科や宗教学科、医学科などを次々と新設していく。『百年史』で山岡はこう回顧している。
「学科を増設して行きますと、自然共通科目が出てくるのです。共通科目は講座一つで他の学科の学生がきくのです。つまり講座は一つで、きく人は多くなってくる。だから経費が自然に節減されてくる」
しかも、その際には「どこでも適当な場所があれば各所に学部なり専門部を建てるという方針」を取ったという。キャンパスがバラバラに点在しているのは、拡大を急いだためだったのだ。
この方針は、戦後も受け継がれ、現在の日大の姿を形づくっていく。そこへさらに“拡大”を重ねたのが、現在の田中英壽理事長体制だった。
※週刊ポスト2018年6月8日号