中川淳一郎のビールと仕事がある幸せ

トラブルを次々解決──中川淳一郎氏が出会った優秀な「広報マン」の仕事ぶり

 当時、29歳だった私は会社を辞め、フリーのライター・編集になってようやく3年目。雑誌『日経エンタテインメント!』のライターをやりつつ『テレビブロス』の編集もしつつ、その他頂いた雑誌やウェブサイトの編集・ライター仕事をなんでもかんでもやり、1年目の年収60万円、2年目の400万円から「今年は大幅に増えそうだな……」みたいなことを考えていた時期でした。

 私としては書籍なんてものは立派な「ジャーナリスト」やら「専門家」が書くものだと思っていたのに、まさか自分が書くなんて……。しかも、トヨタ生産方式や「カイゼン」なんて、大学の商学部の講義で聞いた程度で、興味も何もありません。

「いや……、有難い話だが、オレでいいのか?」
「キミしかいないと思ったんだ! 今、何かが降りてきた。閃いた! 一緒に何かやりたいじゃないか!」

 というわけで、私としてもこれから裏方の編集・ライターとしてコツコツやるのもいいものの、自分の名前で本を出すということはフリーランスとしては有益なので心配はありつつも受けることにしました。

 ここからです。常見氏の優秀さを見せつけられるのは――。

 忙しいながらも彼は東京にやってきて編集者・A氏と私と3人の打ち合わせをセッティングします。その際、「この5つの会社と5人のトレーナーはOKをしてくれている。あとはA氏と中川さんの取材可能な日程を出してくれればあとは私の方で先方、そして社内調整はすべてやります」と彼は言いました。

 A氏と私は数日後にすべての日程を出したところ、常見氏はその日のうちに、第1回目の取材相手企業のアポを取ったのでした。しかも、OJT-Sのトレーナーに同社の成り立ちやコンセプトを説明するアポをその1回目の取材の前に入れてくれたのです。この日は私一人で名古屋へ行きます。

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