Oさんの隣家には、28才ほど年上の作家・林芙美子さん(『放浪記』が代表作。戦後日本人の悲しみを書き綴った作品多数)が住んでいて、幼少の頃から彼をかわいがってくれたそう。空襲の数日後、林さんと顔を合わせたOさんは、あまりの惨状に泣き言を漏らした。「食べるものも履く靴もなく、布切れを足に縛って連日、死体の片付けに駆り出されて、つくづくイヤになった。疲れた」と。
すると林さんは、「何言ってるの。あなたは幸せなのよ」と言ったんだって。「えっ?」と顔を上げると、「いいことも悪いことも、全部見て死んでこそ、人。この戦争が終わったら日本はどんどん復興するでしょう。生き残ったあなたはそれも見られるのよ」と言い放ったんだって。
日本中が混乱と失意に満ちていて、明るい話題を出すことも、顔に笑みを浮かべることも憚られたときだっただけに、Oさんは「なんてこと言うんだ」と思ったという。すると、林さんはさらにこう言った。
「都心を横切って、空襲で焼かれた下町を見に行こう。歴史をちゃんと見るのは、生き残った人間の務めだよ」
若かりしOさんは黙って同行した。そしていま、Oさんは「あの日、林さんと見た光景は忘れられるものじゃないけど、見てよかったと思う」としみじみ語る。
数か月に及ぶコロナ禍に世界中が翻弄され、混乱を極めているいま、Oさんの体験談が妙に生々しく思えた。失意のどん底にあってなお、現実を直視し、向き合おうとする林さんのような姿勢が私たちにも必要だと思う。戦争と感染症を一緒にしてはいけないことはわかってる。でも、出口がなかなか見えない状況下で、押し潰されそうになっても、くじけずめげず、なんとか頑張ろうとするのが大切なのは同じだと思う。
えっ? そんな昔のことを言われたところで、新型コロナウイルスが怖いことには変わりないって? はい、その通りです。だから私は外に出るときはマスク着用で、帰ったら手洗い・うがいは欠かさない。それがこれからずっと日常になるのかもしれない、と思うとほんと、うんざりよ。
でも! 見方を変えたら、それは昨日の続きを明日もしようと思っているからで、「明日からは昨日と違う日が始まる」、そう思うと、また景色が違って見えない?