体重計や体組成計を長年手がけてきたタニタが、創業家3代目の谷田千里社長(たにだ・せんり、48)のもと、「タニタ食堂」や「タニタカフェ」など多分野へと事業を拡大している。従来の枠組みに捉われない経営を訊いた。
──このインタビューシリーズではまず、平成元年(1989年)当時の仕事を伺います。
谷田:平成元年の頃は高校生でした。次男だったこともあり、家業を継ぐ意識はありませんでしたね。
子供の頃から、私が創業家の人間だからと特別扱いする大人もいました。しかし、小学校からミッション系の立教に通って「人間に上も下もない」という道徳観が身についていたせいか、そういう態度がすごく嫌で。
「オレが食わせてやってるのだから言うことを聞け」と父親から威圧的に言われるのにもウンザリしていて、何か別の仕事を、と考えていましたね。
──「別の仕事」とは?
谷田:忙しい母の家事をよく手伝っていて、料理は得意でした。それもあって、「高校を出たら調理師学校へ行って資格を取れば家から出られる」と考えました。ところが調理師学校を卒業した矢先、椎間板ヘルニアを患ってしまった。医者から「立ち仕事に就いたら必ず再発する」と警告され、泣く泣く料理人を諦めたのです。
次に目指したのが栄養士でした。佐賀短期大学(現・西九州大学)で家庭科の教員免許と栄養士の資格を取り、さらに佐賀大学に編入しました。
──その後、船井総研に入社してコンサルティングビジネスに携わった。
谷田:3年ほど在籍しました。本音を言えば、もっと腰を据えて自分の専門領域で著作を1冊出したかったですね。船井総研では、それが“一人前の証”でしたから。
でも、父親から「戻ってきてくれないか」と懇願されて、2001年にタニタに入社しました。配属は経営戦略室。時にはリストラの決断を促すこともあり、つらい仕事でしたね。
その後、タニタの米国法人へ出向することになりました。2003年に渡米して語学研修を行ない、2004~2008年まで計5年、米国で勤務しました。最後の1年は本社の取締役も兼務したので、月に1週間は東京に滞在し、残りの3週間は米国で過ごす日々でした。海外のビジネス現場を肌で感じられた貴重な経験でした。