「作ってきたからわかるんだ~、マンションのことなら長谷工」というテレビCMが印象に残る。マンション施工大手ゼネコンの長谷工コーポレーションが手がけた施工累計戸数は実に65万戸。コロナ禍によるテレワーク浸透やデジタル化の影響で、消費者の住まい選びの基準が変わりつつあるなか、今年同社のトップに就いたばかりの池上一夫社長(63)に勝ち残り策を訊いた。
──このシリーズではまず、平成元年(1989年)当時を伺っています。
池上:私は1980年に長谷川工務店(現・長谷工コーポレーション)に入社し、一貫して意匠・設計畑を歩みました。
入社前の社員数は1800人ほどでしたが、私の同期は570人もいました。当時はマンションをどんどん作っては売れた時代。とくに長谷工は1970年代に開発したコンバスシリーズという生産システムで「少品種大量供給」を進めていました。
当社グループは設計から施工、販売、管理まで一貫して行ない、他社よりも安定した品質で低コストな点が強み。そのため仕事が一気に増えて大量採用したわけです。
もっとも最初から愛社精神に溢れていたかというと、そうでもありませんでした。入社2年目に一級建築士の資格を取り、「いつかは独立して設計事務所を始めるぞ!」という意気込みでしたから。
しかし、大きな会社にいたからこそ経験できたこともたくさんありました。仕事は役所との折衝からデベロッパーへのプレゼンまで多岐にわたり、いろいろなことを吸収できた20代でしたね。
──大きなプロジェクトを任されるようになったのはいつ頃から?
池上:1988年以降でしょうか。コンバスシリーズは施工しやすく低コストで、クレームも少ないマンションでしたが、バブル経済とともにマンションも個性化が必要な時代になっていきました。そのため私は独自性のある設計を色々と試みましたね。
たとえば、その頃手がけた東京都内のマンションは、全住戸が両面バルコニーで共用廊下がなく、2住戸で1台のエレベーターをシェアするという画期的な設計でした。
キッチンから直接エレベーターホールに出られる勝手口を作ったり、駐車場は半地下にしてその上は庭園にするなど、当時としてはかなり思い切った設計でした。
バブル期には当社も事業を多角化し、ホテル事業(ブライトンホテルシリーズ)に参入したり、蓼科(長野県)で総合リゾート開発計画に着手していたので、私も企画設計の立場で関わりました。
その後のバブル崩壊で多角化案件は売却や撤退をしましたが、いろいろな知見を得られた経験が今の私を支えています。