日本経済はコロナ第三波に翻弄されながら2021年の幕開けを迎えた。企業の在り方も個人の生き方も大きな変革が求められるなか、日本はどこへ進むべきなのか──。小泉政権下で総務副大臣時代の菅義偉氏とともに規制緩和に取り組み、総合規制改革会議議長も務めた宮内義彦氏(85)が語った。
──宮内さんは長年にわたって規制改革会議のトップを務めてきた。平成の「規制緩和」の旗振り役としての自分をどう振り返る?
宮内:できる限りのことはやってきたつもりですが、志半ばというのが正直なところです。既得権益と戦ってきたものの、私たちには岩盤規制を突破して新しいものを作るまでの力はなかった。自己採点では「60点」くらい。及第点ギリギリですね。
平成の30年は、一言で言えば「昭和の後始末」に追われた時代と思います。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われた1980年代、中曽根内閣が国鉄、電電公社、専売公社の民営化に手をつけた。そのあたりまでは日本の構造改革は世界に先行していたが、日本企業の好調とバブル経済で過信が生まれ、その後は遅々として進みませんでした。
日本が本格的に規制改革に乗り出したのは1994年。私が政府の規制緩和小委員会に入った頃です。それからおかしな規制を撤廃し、閉ざされたマーケットを開放していきましたが、それでも欧米に大きく後れを取ったことは否めません。
──中でも小泉政権で総合規制改革会議の議長を務めるなど、宮内さんは政策決定に大きな影響力を持っていた印象がある。
宮内:議長といっても民間人です。実際に規制改革を進めていくには、政治家が動いて国会で法律を変えていく必要がある。しかし不人気な政策はなかなか決断しない。
ある時の総理からは「ご苦労をかけますな。規制改革は政治家の仕事なのに、嫌われることを言わせて申し訳ない」と声をかけられました。こちらとしては発言するのも嫌われるのも構わないが、それが徒労に終わるのが一番つらい。各省庁や特定の業界の既得権益の壁を壊すのはなかなか難しかった。
たとえば農協はどうあるべきかについて、もう20年も同じ議論が堂々巡りしている。医療分野の混合診療ひとつとっても何十年も進みませんでした。コロナ禍に迫られてようやく遠隔診療が一部実現しましたが、そんなことはもう十数年前から私たちが提言していたわけです。