世界一周は当時の夫(作曲家の小泉まさみ氏)とのふたり旅。28か国132都市を1年かけて回り、残りの1年は米ロサンゼルスで暮らした。
この旅で最も印象に残る出来事が、その後の人生の大きなヒントとなった。
「タイで出会ったバスの運転手の言葉に衝撃を受け、深く考えさせられました。『タイはいま、主要産業であるえびの養殖場を各地に増やしています。そのためにマングローブの森が減少し、環境破壊が起きています。タイのえびをたくさん食べている日本から来たあなたはどう思いますか?』と聞かれて、何も答えられなかった。『地球で起きていることになんて無知だったんだ』と痛感し、この旅を、地球を知る旅にしようと決めました」
旅から戻ると、初のエッセイを出版。ミュージカルの出演や、シンガポールでのデビューなど、仕事の幅を次々と広げていった。ところが1999年、44才の庄野は事故と病気で、立て続けに入院することになる。
「人間の命には限りがある。その中で、自分はどれだけ夢を実現してきただろうと、ベッドの中で考えました。そして、やれていないことをノートに書き出してみたんです。小学校ではバレエ、芸能界に入ってからは隠し芸大会、とかね(笑い)」
そこには「環境の勉強をする」「歌手を選んで実現できていないキャンパスライフを送る」という2つもあった。
「退院後、法政大学が人間環境学部を創立し、社会人入試を行うという新聞記事を見つけ、『これはやるしかない!』と、にわか勉強を始め、2000年、45才で大学生になりました。念願のキャンパスライフも、最初は『おばさんだし……』なんて遠慮していましたが、すぐに同化できました(笑い)。上下関係がなく、全員均等の環境にいるという体験もよかったですね」
ボランティアの授業の一環で、歌を聴きに行けない人に歌を届ける『TSUBASAミュージックデリバリー』というプロジェクト案が採用され、サークル化されたこともある。
「その数か月前、脳腫瘍のため、母が73才で亡くなりました。実は生前、『ホスピスにいる患者さんたちに音楽を聴かせてあげたいんだけど、何か方法はないかしら』と相談を受けていたんですが、忙しくて何もできなかった。そのことを思い出して立案しました」
イベントは大盛況。聴衆の満面の笑みに、母の願いを少しだけかなえてあげられた思いがしたという。