時計製造にルーツをもつセイコーエプソンの事業範囲は多岐にわたるが、とりわけ馴染みがあるのは「EPSON」ブランドのプリンターだろう。昨春、コロナ禍の逆風の中で同社のトップに就任した小川恭範社長(59)は、デジタル化、ペーパーレス化が進む社会にあって、プリンターを主軸とするビジネスモデルをどう変えていこうとしているのか。
──平成元年(1989年)当時は何をされていましたか?
小川:私の入社はその前年、1988年でした。大学(東北大)では精密工学を専攻しており、就職先は名古屋(小川氏の出身地)のような大都市ではなく、アウトドアライフがより楽しめる自然環境に恵まれたところがいいと考えていました。まさに自然豊かな諏訪市(長野県)に本社があるセイコーエプソンは魅力的な会社でした。
私の入社当時は社員平均年齢が30歳くらいと若くて職場に活気があり、製造業としては珍しく女性社員の比率が高かったんです。
──ということは、社内結婚?
小川:違いますが、家内との出会いは諏訪市でした(笑)。
──当時はどんな会社でしたか。
小川:ルーツである時計ビジネスを軸に、ロボットや半導体、液晶ディスプレイ、プロジェクターといった事業にも果敢にチャレンジしていて、“面白い会社だな”という印象でした。
ちょっと変わったところでは、1985年に発売した毛玉取り器がヒットしましたし、ハンディカラオケの「マメカラ」、ほかにも電気シェーバーやメガネレンズ、デジカメ、電子体温計などを作っていた時期もあります。自由な発想を大事にして、「世界初のモノを作ろう」という気概に満ちていたので、理系出身者としてはとても魅力的な会社でした。
──ご自身はどんな製品に関わったのですか。
小川:最初の配属先は研究開発本部でした。ファクシミリの読み取り装置であるイメージセンサーを非常にコンパクトに作ったことで話題になりました。ただ、そのセンサー事業(外販)は、やがてコスト競争に敗れ、事業打ち切りとなってしまったのは悔しい思い出ですね。
その当時、社内では家庭用プロジェクターの事業も始めていましたが、残念ながら製品的には画質が粗く、高コストになってしまったこともあって、結局この事業も打ち切りに。その一方で、法人向けのプロジェクターであればかなり需要があることがわかったので、プロジェクター事業が再整備され、私もそのメンバーとして参画しました。