提案に感心した井深は、「これは飯のタネになる」と考えてソニーで半導体を使ったエレクトロニクス着火方式のエンジンを組み立て、データを本田に提供した。だが、採用はされなかった。
〈仕事や商売のほうで、ソニーとホンダが組むというのは、最初から実現せずに終わりましたが、それ以来、本田さんとのお付き合いが始まったわけです〉
その後、ソニーが1955年に持ち運びできるポータブルテレビを開発したとき、ホンダが小型発電機を供給した以外、本格的な協業はなかった。
2人と親交があったジャーナリスト・田原総一朗氏が経営者としての顔を語る。
「無口な井深さんと陽気な本田さんは陰と陽と比較されましたが、私がお会いした印象はそんなことはない。どちらも仕事一筋、仕事には決して手を抜かない人でした。例えば新幹線や飛行機でたまたま一緒になると、どちらも隣の席の人にお願いして私の隣に座り、政治経済はどうか、アメリカの状況はどうかなどを聞いてくる。自分の仕事に役立つ情報を探していて、聞き上手。加えて言えば、お二人とも自分の意思を貫き、他人に一切迎合しない方でした」
井深いわく“心の盟友”
プライベートでは2人の友情は深まっていった。
互いに多忙な中でゴルフを共にし、遊びが好きな本田は毎年誕生日に自宅の庭に川をつくって鮎を放流し、親しい人を招いて釣りを楽しむことで知られていたが、井深は毎年参加していた。
元ソニー上席常務の土井利忠氏が語る。
「井深は本田さんのことを語るとき、いつも満面の笑みを浮かべて楽しそうだった。性格は正反対だったが、お互いに開拓者としての精神で固く結ばれていたように見えた」
それだけではない。本田の薫陶を受けた入交昭一郎・元ホンダ副社長の貴重な証言だ。
「井深さんには障害を持つお子さんがいて、障害者の社会参加を支援する活動に熱心に取り組んでおられた。本田宗一郎もその活動に賛同し、ホンダ太陽という障害者を雇用する会社を設立したんです。当時は今と違って障害者雇用促進法がまだない時代でした」