■井上さん! 金庫の中身を持って逃げてくれないか?
「今来てるのも、それじゃないのか?」
妹との電話のやりとりを横で聞いていた井上さんが、心配そうに声をかけてきました。井上さんは僕の投資の先生ともいえる人で、プライベートでもいつも一緒に食事したりしている大先輩です。昨晩も仲間と遅くまで六本木ヒルズクラブで飲んでいたので、帰るのが面倒になった彼は、そのままこの部屋に泊まっていたのです。
その声ではっとわれに返ると、インターホンはまだ鳴り続けています。宅配便やセールスが、こんなにしつこいはずがありません。僕はインターホンのモニターで、鳴らしている人物の姿を確認しました。すると、小さな液晶画面に、見たことのないスーツ姿の男が2人映っていました。画面には映ってないけれど、周りにも何人かいそうな雰囲気です。
これはやっぱり、ただごとじゃないぞ──。僕はとっさに、井上さんに向かって叫びました。
「ここにいるとヤバイかもしれない。すぐ帰ってくれ」
半ば追い出すように井上さんの背中を押したとき、ふとある考えが浮かびました。
「ちょっと待って! これを持ってってくれないか」
僕はあわてて金庫を開け、中にあった2キロの金塊と現金を彼の手に無理やりつかませました。もし今、井上さんが出て行っても、外でインターホンを鳴らしている連中には僕の来客だとわからないはず。血相を変えた僕にただならぬものを感じたのか、井上さんは心配そうな表情で、でも何も聞かずに荷物を持ってそのまま出て行きました。
■とりあえず預金通帳だけは隠して、部屋から脱出だ!
インターホンは、まだ鳴り続けています。ほどなくして井上さんのケータイから、無事にこのマンションの駐車場を出たと連絡が入りました。とりあえず、冷静になろう。
僕はバスルームに向かい、ざっと熱いシャワーを浴びました。バスタオルで身体を拭ふきながら部屋に戻り、考えをめぐらせてみます。
「なんでうちに国税局が来てるんだ? だってオレには心当たりなんてなんにも……。いや、ある、思い当たる節が……。うーん、どうしたものかなあ。まさかこんなことになるなんて思ってもみなかったし……。となると、連中に見つかるとヤバイものはなんだ?」
インターホンは、鳴りやむ様子はありません。だけど、どうやら無理やり乗り込んで来るわけでもないようです。そこで、ちょっと外の様子を見てみようかな、と思い立ちました。
僕は貴重品入れから預金通帳を出してポケットに突っ込み、タオルを首にかけたまま部屋を出ました。エレベーターを降り、居住者の共用スペースであるラウンジをのぞいてみたところ、どうやらだれもいないようです。僕はとっさに、手にしていた通帳をソファのシートの奥にグイッと押し込みました。
さすがにこのまま正面玄関に回る度胸はないので、あたりをうかがいながら裏口に向かいます。するとそこには、スーツ姿の男が2人、たばこを吸いながら談笑していました。
「これも国税かな? その割には余裕ぶっこいてるけど」
僕は思い切って、素知らぬ顔で通り過ぎてみることにしました。彼らはそんな僕には、なんの興味もないといった風情でたばこをふかし続けていました。やった──。
まさか僕がこんなところから堂々と出て行くとは思わなかったんでしょう。とりあえずは、マンションを脱出することに成功しました。