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『鎌倉殿』時代の日本経済 「全国規模の貨幣流通」はどう実現したか?

「大輪田泊」は日宋貿易に使われていない?

 NHK Eテレの番組を書籍化した、『NHKさかのぼり日本史 外交篇[9]平安・奈良 外交から貿易への大転換』(NHK出版)のなかで、日本古代史、海域アジア史が専門の著者・山内晋次氏(神戸女子大学教授)は〈平安時代末期の対外関係をめぐって〉は〈実像とはかなり異なった歴史像が定着〉していると主張する。

 山内氏は、「清盛およびその一門が権力を握った時期に、平氏自前の貿易システムが整備されたことを証明する記録」、「宋の商人が唐船のまま大輪田泊に来航したことを証明する記録」、「平氏政権が政策として宋銭の輸入を推進したことを証明する史料」のいずれも発見されていないことを、主張の根拠としている。

 同書で山内氏は〈大輪田泊が清盛によって〈国際貿易港として〉企画・整備され、多くの宋船の来航でにぎわったとする通説的な理解は、根拠の薄い思い込みである可能性がきわめて高い〉とし、〈清盛による国際貿易港としての大輪田泊の整備という〈事実〉自体がそもそも存在しなかった〉と喝破する。平氏が日宋貿易を独占した事実はなく、「まず日宋貿易ありき」の大前提がそもそも誤りなのであるという。

 とはいえ、清盛の功績を矮小化しているわけではない。山内氏は歴史的な事実として以下の点を挙げている。

【1】10世紀半ばから途絶えていた貨幣の流通が平氏政権時期に復活しているように見えること
【2】大輪田泊の整備
【3】瀬戸内海に異国人を引き入れたこと
【4】武家として初めて外交・貿易の中心に食い込んだこと
【5】瀬戸内航路の要衝を一門と家人で固めたこと

 清盛が意図したのは、西国から都への物流を管理することを通じ、平氏一門の経済的・政治的な基盤を固めることだった。つまり、日宋貿易への関与は限定的にすぎず、宋銭の大量流入は目的ではなく結果だったというのだ。

 また山内氏は、〈宋銭を主体とする貨幣流通が本格化するのは、平氏政権の時期よりも百年ほど時代の下った13世紀後半〉とも主張している。たしかに、宋銭の大量流入がインフレを招き、宋銭停止令が発布される事態は都とその周辺地域に限られた。平氏政権から鎌倉時代前半までは、宋銭の普及が地方に及んでいなかったことがうかがえる。

 年貢を現物でなく、銭で治めることを「代銭納」という。13世紀後半にはあらゆる税の代銭納化が進み、同世紀末までにその流れは全国すみずみに及んだ。清盛が見た(かもしれない)中世版「グローバル経済」の夢は、没後100年余にして叶えられたのだった。

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。最新刊に『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(ワニブックス)がある。

 

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