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『鎌倉殿』時代のインフラ整備 神社仏閣が並ぶ景観は日中貿易により保たれた

 この建長寺船ほど明確な記録はないが、称名寺(横浜市)や極楽寺、勝長寿院(鎌倉市・現在は廃寺)、関東大仏(高徳院。鎌倉市)などの造営・修復に際しても、費用調達のために貿易船が仕立てられるか、または計画されたことがわかっている。

 とはいえ、幕府自身が貿易船を所有することはなく、船主はどれも博多の宋人海商(中国大陸から日本にやってきて貿易を担った商人たち)で、雇い主はあくまで勧進元の寺社勢力である。幕府の関与は警固に御家人を動員するなど限定的だったが、神社仏閣が建ち並ぶ鎌倉の景観は武家政権の顔でもある。その修復と維持において、日宋貿易は重要な役割を果たした。

貿易で財を成した公卿

 都の景観維持についても同様のことが指摘できる。当時、都の公卿でも貿易船をチャーターするなど日宋貿易に手を出す者がいた。関東申次(かんとうもうしつぎ)という、朝廷と鎌倉幕府の橋渡し役の任にあった西園寺公経(さいおんじ・きんつね)もその一人。公経は1242年に貿易船を仕立て、南宋の皇帝に檜材を贈った礼として10万貫文の銭を輸入している。

 公経は源頼朝の姪にあたる女性を妻としていた関係もあって、幕府と後鳥羽上皇の対立が高じた際にも親幕府姿勢を貫き、承久の乱(1221年)後は数少ない勝ち組として、わが世の春を謳歌した。

 政治的にも経済的にも嗅覚の働く人物だったのか、公経が貿易船を仕立てたのは、北山に築いた豪奢な寺院と別荘に改修が必要になった頃にあたる。のちに室町幕府の三代将軍、足利義満が鹿苑寺(金閣寺)を創建したのはその跡地で、義満は日明貿易の利にいち早く目をつけた人物。つくづく日中貿易に縁のある場所である。

 ちなみに、都の公卿たちは貿易と無縁のように見えながら、実際は藤原摂関家を筆頭に大の「唐物」好きだった。中国製の書籍、文房具、工芸品などは威信財として最適で、自身を飾るだけでなく、贈答品としても喜ばれた。

 今日に残る京都の景観もまた、公卿らの虚栄心を満たす日宋貿易から上がる利益で保たれていたといえる。

【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。最新刊に『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(ワニブックス)がある。

 

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