これとは対照的に、運命の暗転に見舞われたのが河津三郎の2人の遺児である。実父を失ったとき、兄は5歳、弟はまだ3歳の幼児で、母の再婚相手の姓を取り、曽我兄弟と呼ばれる。母の再婚相手には後継者として内定済みの連れ子がおり、所領もさして広くなかったことから分割相続はあり得ず、母は曽我兄弟を仏門に入れるつもりでいた。
けれども、兄弟は父の仇討ちを誓い合っていたことから、母の断りを得ることなく元服を遂げ、兄は十郎祐成、弟は五郎時致と称し、親戚の家を転々としながら、工藤祐経を討ち取る機会を待つ。一瞬とはいえ予告編に映っていたことから、6月5日放送予定の『鎌倉殿の13人』第22回では、逞しく成長した兄弟の姿が拝めるはずである。
仇討ちの裏にみえる相続の恨み
仇討ちが決行されるのは建久4年(1193年)5月のこと。実のところ、事の起こりから結末に至るまで、史実として確認できる部分は極めて少ない。巷間に知られるストーリーのほとんどは、書籍としては14世紀後半(南北朝期)に成立したと見られる軍記物語の『曽我物語』に拠っている。
中世の物語作品といえば、『平家物語』と『曽我物語』を双璧とするが、琵琶法師による語りを原型とする『平家物語』に対し、『曽我物語』は13世紀後半に成立した瞽女(ごぜ)による語りを原型とする。瞽女とは三味線を弾き、人家の門前で唄を歌うことで生活の糧をもらい受けた、目の不自由な女性旅芸人を指す言葉で、伊豆・箱根周辺に彼女らの一大拠点があったと考えられる。
現代のわれわれは、父の仇討ちという点に注意を引かれがちだが、曽我兄弟の原動力はそれだけではない。父か健在であれば、兄弟のどちらか1人が家督と伊東荘を継ぎ、もう1人は京都に常駐することで、貧窮も共倒れも余裕で避けることができた。それが叶わず、2人とも居候として肩身の狭い思いを強いられたのは、すべて工藤祐経のせい。兄弟にとって祐経は、二重の復讐相手だったのである。
ちなみに、兄弟の継父のように、所領の分割相続を避けた御家人は少数派だったようだ。大半は分割相続を重ねたあげく、借金で首が回らなくなり、質草として所領を手放す羽目に陥るか、幕府の統制に従わない武装集団「悪党」と化していった。
のちの鎌倉幕府の滅亡を招いた要因は、2度にわたる元寇(13世紀後半)後の恩賞不足への不満ではなく、それ以前から続いた分割相続の繰り返しによる、既存の社会秩序の崩壊にこそ求められるだろう。
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。近著に『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(ワニブックス)、最新刊に 『ロシアの歴史 この大国は何を望んでいるのか?』(じっぴコンパクト新書)がある。