一方、「奉公」のなかの「軍役」には戦時における軍事的な奉仕はもちろん、平時における御所や侍所の警備も含まれる。「番役」は当番制で鎌倉と京都の治安維持に当たり、「関東御公事」は御所や内裏、社寺の修造などの経費負担を指す。
これら「御恩」と「奉公」のバランスが取れているうちはよかったが、戦いが減れば、「新恩給与」の機会も自ずと減る。また火災や地震が頻発していた当時は、常にどこかで重要建築物の修造が行われていた。
臨時のはずの経費や労力の提供が常態化しては、御家人たちに不満が生じるのも無理はない。とくに建久元年(1190年)の頼朝の上洛に関しては、その政治的な意味を理解する者とそうでない者とで、受け止め方が極端に違ったはずである。
政治的な駆け引きなど理解できない御家人にしてみれば、経費を自弁してまで頼朝の上洛に随行することは、時間と労力の無駄としか思えなかっただろう。新たに得た所領経営にできるだけ時間と労力を割きたいところだったはずだ。
兵を貸した御家人がいたことは間違いない
そうした鎌倉御家人の不満が爆発したのが、大河ドラマでも描かれた「曾我兄弟の仇討ち」事件である、との見方がある。
『鎌倉殿の13人』第23回(6月12日放送)では、富士の裾野での事件(曾我兄弟の仇討ち)とその後始末が描かれ、北条義時(小栗旬)の機転により、仇討ちを装った謀反ではなく謀反を装った仇討ちであるとされたため、黒幕であった北条時政(坂東彌十郎)は処罰を免れた。
この事件については、1979年放送の大河ドラマ『草燃える』でも詳細に描かれた。動機が捻じ曲げられた点は『鎌倉殿の13人』と同じだが、こちらは小説家・永井路子の原作(『北条政子』『炎環』)があることもあり、黒幕は伊東十郎という架空の人物で、大庭景義と岡崎義実の2人が兵を貸したとされた。