大庭景義と岡崎義実はどちらも挙兵以来の御家人で、当初は北条時政より大きな所領を有していた。しかし、時代の変化に上手く対応できず、北条氏に抜かれ、大きく水を空けられた。事件の起きた建久四年(1193)5月の時点では、明らかに「負け組」と化していた。
そもそも『吾妻鏡』の「建久四年五月二十八日条」には、工藤祐経とたまたまいっしょにいた神官の王藤内(隆盛)のほか、曾我兄弟の襲撃で負傷した者9人と死者1人の名が記されている。負傷者のなかには、源頼朝の旗揚げに参加した加藤光員のような古参組の名もある。同書に列記されたのは名のある武士に限られ、実際の死傷者はそれ以上だったかもしれない。
しかし、いくら深夜とはいえ、曾我兄弟2人だけで、実戦経験豊富な鎌倉武士相手に多大な被害を与えられるはずはない。兵を貸した御家人がいたことは間違いなさそうだ。それが大庭景義と岡崎義実であったとするなら、富士の裾野で起きた事件は曾我兄弟の仇討ちを利用した謀反と断定してもよいのではないか。頼朝への不満を募らせた「負け組」が起死回生を狙ったのである。
大庭景義と岡崎義実は同年8月24日に出家している。『吾妻鏡』の同日条には「とりたてて思うところがあったわけではないが、それぞれ年老いたのでお許しうけて出家を果たした」とある。しかし、ここは永井路子が歴史評論『つわものの賦』(文春学藝ライブラリー)で指摘した推理に従いたい。
〈ある事件に連座して謹慎を命ぜられて出家したことはまちがいない。その出家の日時を思えば、どうも裾野の一件がその原因としか思えない〉
大庭・岡崎と範頼の間に事前の約束があったのか、大庭・岡崎以外にも協力者がいたかどうかは不明ながら、曾我兄弟の仇討ちと範頼の失脚が、ただ働きの多さや「負け組」の不満の蓄積を背景としていたことは、十中八九間違いない。鎌倉の御家人に「滅私奉公」など無縁の言葉で、「一所懸命」こそその生き様だった。
【プロフィール】
島崎晋(しまざき・すすむ)/1963年、東京生まれ。歴史作家。立教大学文学部史学科卒。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て現在は作家として活動している。『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『いっきにわかる! 世界史のミカタ』(辰巳出版)など著書多数。近著に『鎌倉殿と呪術 怨霊と怪異の幕府成立史』(ワニブックス)、最新刊に 『ロシアの歴史 この大国は何を望んでいるのか?』(じっぴコンパクト新書)がある。