物々交換はなかった?
しかし、残念なことに、人類が物々交換をしていたという証拠はないのだそうだ。逆に太古の昔から人類はお金のようなものを使っていたという証拠ならたくさんある。今日では、さまざまな研究から、物々交換の不自由から脱却するためにお金が生まれたという説は、ほぼ完全に否定されている。
たとえば、『負債論 貨幣と暴力の5000年』を書いたデヴィッド・グレーバーは同書でこのような説を“神話”と称して徹底的に批判している。『21世紀の貨幣論』を書いたフェリックス・マーティンも古くからの伝統が残るヤップ島のでっかい石の硬貨(石貨)を紹介しつつ、人類はもともとお金を使った経済システムを持っていた(つまり物々交換はなかった)と説明している(因みにこのヤップ島の石貨は日比谷公園で見ることができます)。
では、物々交換の不自由から脱却するために人々がお金を必要とし、経済システムが生まれたという考え方が、専門家の間ではほぼ完全に否定されているのに、いまだにはびこっているのはなぜか?
ひとつは、“怠慢による間に合わせ説”である。この名称は僕がつけたもので、内容もここではじめて公表する。物々交換から経済が始まったという説明は、説明がしやすいし、まちがっていたとしてもべつに害はないので、一般の方々にはこの説明で納得してもらえばいいじゃん。さらに、「じゃあそもそもお金はなぜ生まれてきたのか」という疑問に答える、わかりやすくて説得力のある説明が見当たらないから、こっちで間に合わせとけ。──ということで、いまだにこの説明を使っているのではないか? まさしく読んで字のまんまの“怠慢による間に合わせ説”である。
さて、もうひとつのほうは、妄想だと馬鹿にされる覚悟で言わなければならない。それは、上のような説明をしておけば、お金の本質について皆があまり考えないから、というちょっと陰謀論めいたものだ。つまり、“お金が生まれた当初からその根底にあったもの”から目を逸らしておくほうがよいという魂胆があるのでは、というものだ。
では、あまり一般には流通させたくないお金の本質(元型)とはなにか。いろんな本を読んでいると、最近では「貨幣とは負債だ」という説がかなり有力らしい。お金の本質は借金だということである。お金の本質は、貴金属のようなモノにはなく、むしろ見えないある種の“関係”にあるというのだ。〈借金する/させる〉ということを考えてみると、これは信用があってこそ成り立つ行為である。返してくれないと思っている人には誰も貸しはしないのだから。