そして、新自由主義は必然的にグローバリゼーションに向かう。なにせ、ヒト・モノ・カネの中で、お金はワンクリックで地球の果てまで飛んでいく。まずはお金が自由の翼で飛んでいき、次に安い労働力を目指して工場が移転し、ここから安価なものが海外に出ていくわけである。
「市場の正しさ」を統計と数学で証明した?「合理的期待形成仮説」
グローバリゼーションは仲間意識というものを希薄にする。「いやあ、外国から安いのが入ってきて俺んちのオレンジが売れない」と郷里の幼馴染みが嘆いても、「自由競争だからしょうがねえだろ。ま、頑張って値段下げるしかないよな」という感情しか育たなくなってくる。しかし、仲間意識というのは国民にとって、引いては人間にとって非常に重要なものなのだ。これが壊されるというのは非常に問題である。
さらに、金持ちが勝者として礼賛されるという風潮も強くなるのも看過できない。成功した経営者が我が物顔で「○○してる奴はバカなんじゃないの」と言うのを世間が容認してしまう、へたをすると喝采するなんてことが起る。こういう殺伐さを誤魔化すために、一部の政治家は「既得権益をぶっ壊す」などとカッコいいことを言ったわけである(ぶっ壊したほうがいい既得権益というのはもちろんありますが)。
しかし、そもそも、市場に任せておけば万事うまくいくという考え方は、僕など直感的に「ん?マジかよ。なにかおかしいな」と思ってしまう。それに、「おいおい、ここらで政府がなにかしないと事態はどんどん悪くなるぞ」と考えるのも、まったくもって自然ではないか。実際、ほったらかしにおいて、市場の治癒力で回復できず、深い痛手を負ってしまった例が1929年に起きた大恐慌だ。
そして、このとき新しい経済学が注目を集める。ケインズ経済学である。ケインズは、まずは政府が市場にお金を流し込むことが大事だと主張した。さらに、それでも経済が回復しないようであれば、公共事業によって刺激を与えるべきだと提案した。つまり、ほったらかしでは駄目、小さな政府など言語道断、政府はやるべきことをやるべしと言ったわけだ。もっとも、主流派にだって、完全にほったらかしがいいと思っていた人ばかりではない。ハイエクという人はケインズの論敵だったが、教条的に市場に任せろと言っていたわけではなく、貧困者の救済のために政府が一定の社会保障機能を果たすことを認めていたそうだ(宇野重規『保守主義とは何か』参照)。
が、とにかく、ケインズが説く政府の市場への介入度合いは、主流派経済学者らにとっては度が過ぎており、とうてい容認できるものではなかった。これ以降、ケインズ対主流派という対立構造ができ、経済学は大きく二分化されることになるのである。と同時に、この主流派とケインズ派の対立が政府の経済政策にも影響を与えていく。
ケインズ派は政府による公共事業を積極的に推し進めて景気を刺激しろと言い、主流派はそのようなことは自由な経済活動を阻害するだけだと反論する。戦後からの経済学史を大きく俯瞰して眺めると、戦後はケインズ派がリードし、70年代からまた主流派経済学派が盛り返し、リーマンショックで大いにミソをつけた後も主流派優位の状況は続いているようだ(中野剛志『富国と強兵』参照)。