話を戻そう。ともかく、市場を信頼するという信念は、主流派経済学がなんとしてでも守りたい牙城だ。それを説得するために、彼らが武器として使ったのが、非常に高度な統計と数学だった。その最大の成果が、ノーベル経済学賞を受賞したロバート・ルーカスの「合理的期待形成仮説」だ。ルーカスはものすごく高度な数学を使ってやたらと複雑な計算した後で、「すべての政策は市場に読まれているから、なにをやっても無駄だよ」という結論を導き出した。つまり、「ほったらかしにしたほうがいい、市場に余計な手出しをするな」という説を数学によって論理的に補強した訳である。
しかし、いくらなんでも「すべての政策は市場に読まれているのでなにをやっても無駄」なんて結論は、直感的にはおかしいと感じてしまう。もっとも、この論を信奉する学派は、「おかしいと考えるのは錯覚だ、こっちは複雑な計算をして導き出したのだから、真実は我らにある」と主張したいのだろう。しかし、騙されてはいけない。実際の経済においては、立派な理論が現実と合わないなんてことは沢山あるのだ。
人間は「合理的」に「期待」しているのか
たとえば、かつて米国にLTCM(ロングターム・キャピタル・マネジメント)というヘッジファンドがあった。ノーベル経済学賞を受賞した経済学者2名が名を連ねるドリームチームとして注目を集めていた。彼らの戦略は機会があれば別途紹介したいが、とにかくLTCMが破綻する確率は、統計学的に言えば、5億回に1回程度ってことになっていた(宮崎成人『教養としての金融危機』参照)。
しかし、見事に破綻した。これが現実である。では、これは5億回に1回の確率が現実になってしまったのだろうか。そう考えるよりも、そのリスク計算そのものが現実を捉えていなかったと考えるほうが自然だろう。それでも納得できない人は、リスクなんてほとんどないと宣伝されていたサブプライムローン債権市場の破綻を思い出してほしい。
それによく見てみると、合理的期待形成仮説と書いてあるじゃないか。そう、これは合理的な期待(経済学が使う“期待”は“予想”とか“予測”と解釈すればいい)というものを前提としてはじめてなり立つ説なのだ。けれど、人間は本当に合理的に期待(予測や予想)なんかしているのか?
たしかに人は予測や予想(期待)をする。しかし、合理的つまり数学的にガチにしているか、ここが肝心だ。そんなことはしたくてもできないのが現実である。実際、認知心理学者にしてノーベル経済賞を受賞したハーバート・サイモンは「制限された合理性」という言葉を使ってこのことを問題視している。
そしてさらに問題なのは、一聴して「おかしい」とわかるこの屁理屈が、主流派経済学を大いに活気づかせるくらいにウケたことだ。おかしいな、なぜだろう、と僕なりに考えてみて、ふたつ理由を思いついた。
ひとつは難しい数学理論を振り回すのがエレガントでカッコよかったからではなかろうか。実際、アメリカに留学して経済理論を学んだ中谷巌は、これは合理的期待形成仮説に直接言及したわけではないが、「アメリカ近代経済学の素晴らしいロジックの体系とその緻密さに私は圧倒されるようになった」「私はアメリカ経済学の虜になり、(一定の仮定のもとに展開される)マーケット理論の精緻さ、理論体系全体の完成度の高さには敬意を表すようになっていった」とその著書で告白している(『資本主義はなぜ自壊したのか』参照)。
またポール・クルーグマンは「経済学界には、とりわけ独創的ではないが頭の回転が速い若手研究者が、その賢さを誇示できるような理論の方に、弟子が多く集まるという皮肉な事実がある」と述べている(『経済政策を売り歩く人々』参照)。