閉じる ×
トレンド

“闇将軍”と“闇経済の帝王”の知られざる交友 田中角栄から贈られた推定2億円の日本絵画

田中角栄元首相と森下安道氏の知られざる交友関係(Getty Images)

田中角栄元首相と森下安道氏の知られざる交友関係(Getty Images)

 貸付総額1兆円超の街金融・アイチを率いて“闇経済の帝王”と呼ばれた森下安道(1932-2021)。その彼が、時の“闇将軍”田中角栄と深い交友を持っていたことは、ほとんど知られていない。評伝『バブルの王様 森下安道 日本を操った地下金融』を上梓したノンフィクション作家・森功氏が、生前の森下の証言をもとに明らかにする。(文中敬称略)

 * * *
「いっときは頻繁に会っていましたよ。だいたい3週にいっぺんは、将棋を指していました。秘書から電話がかかって来て、相手をさせられる。将棋の相手がいなかったわけではないだろうけど、なぜか私がしょっちゅう相手に指名されました。断れないから、目白のお屋敷に行ってね。縁側に座って必ず三番、角さんの相手をしていました。総理はずい分将棋が好きでした」

 生前の森下がそう話してくれたことがある。念を押すまでもない。「総理」「角さん」とは田中角栄のことである。森下が往時の目白御殿を瞼に浮かべながら懐かしんだ。

「目白のお屋敷では、錦鯉の泳いでいる池の向こうにちょっとした納戸があってね。あるとき角さんに案内され、そこを見せられたことがありました。納戸に美術品がいっぱい納められていてね。田中総理は西洋の絵が好きなようでした。ざっと100点以上あったように記憶しています」

 もとはといえば、森下は小佐野賢治(国際興業グループ創業者)を通じて田中角栄を知ったのだという。小佐野とは日常的に神楽坂の料亭「松ヶ枝」で夕食をともにし、そのまま世田谷区上野毛の小佐野邸まで送り届けるという習慣があったが、田中と会うときは赤坂の「千代新」に通った。千代新は田中のお気に入りとして永田町で知られてきた高級料亭だ。そのことを、森下のブレーンだった新発田純一に尋ねるとこう言う。

「さすがに私が田中元総理と席をともにすることはありませんでしたけど、帰国したとき千代新には私も森下会長に呼ばれてよく行きました。私も会長も酒を飲まない。けれど、会長はそういう席がお好きだったんですね。呼ばれていくと、『さっきまでそこに総理が座っていたんだよ』と話されることもありました。それが田中角栄さんだったと思いますから、親しかったのは間違いないでしょうね」

 田中角栄は雪深い新潟県刈羽郡二田村(現・柏崎市)の牛馬商、つまり馬喰の息子として生まれた。尋常高等小学校卒業ながら1972(昭和47)年7月、内閣総理大臣に昇りつめる。首相在任期間は1974年12月まで2年あまりの886日、と比較的短命だったといえる。が、1976年2月に発覚したロッキード事件後も政界における絶大な影響力を長らく残した。永田町でついたあだ名が闇将軍だ。

 森下は決して政治家との交友が多い方ではない。

「役者と政治家は役に立たんから、あまり付き合いはしないことにしているんだ」

 常々そう話していた。政治家との交友でいえば、新自由クラブを旗揚げした元労相の山口敏夫や元国土庁長官の伊藤公介くらいだろうか。いずれも選挙のときに支援をしてきた。

 その森下にとって田中は、別格の存在だったに違いない。森下が憧れてきた小佐野との盟友関係は知られたところだが、闇将軍と闇経済の帝王が将棋を指し、会食を重ねる間柄だった事実はほとんど知られていない。

関連キーワード

注目TOPIC

当サイトに記載されている内容はあくまでも投資の参考にしていただくためのものであり、実際の投資にあたっては読者ご自身の判断と責任において行って下さいますよう、お願い致します。 当サイトの掲載情報は細心の注意を払っておりますが、記載される全ての情報の正確性を保証するものではありません。万が一、トラブル等の損失が被っても損害等の保証は一切行っておりませんので、予めご了承下さい。